一昨日の日曜日(5/10)は大阪府門真市で大阪東部錬成大会、徳島県三好市でオアシス杯でした。

大阪東部錬成大会を運営された新極真会大阪東部支部・阪本師範、阪本道場スタッフの皆様、オアシス杯を運営された聖空会山本道場・山本師範、山本道場スタッフの皆様、大会に参加させていただきありがとうございました。


大阪東部錬成の組手ではユノちゃん、タイト君が優勝、型ではユイト君、リトちゃん、タイシン君が優勝、オアシス杯の組手ではリュウイ君が優勝、タツキ君が2位でした。
勝った人も、負けた人も、よく頑張りました。

保護者の皆様も同行、お疲れ様でした。

さて、今は故人となった有名政治家の動画を最近、SNSでよく見かけます。
共感することが多く、ついつい見入ってしまいますが、先日「教育とは強制」との自身の信念を語る動画を見かけました。

その関連動画で私が子どもの頃、あるスパルタ教育で有名な元スクール経営者との意気投合した対談動画も見かけしたが、そのスクールは生徒の死亡事故を引き起こし、昔、世間から非難されただけに「教育とは強制」と論じる主張に共感を覚えつつも違和感も感じました。
【強制、「什の掟」】
武士道教育で名高い江戸時代の会津藩(現福島県西部)には「什の掟」というものがありました。
「什の掟」とは以下の通りです。
年長者の言うことに背いてはならぬ
年長者にはお辞儀をしなければならぬ
嘘を言ってはならぬ
卑怯な振る舞いをしてはならぬ
弱い者をいじめてはならぬ
戸外で物を食べてはならぬ
戸外で婦人と言葉を交わしてはならぬ

この掟を旨として幼少期(6才〜9才)の藩士師弟を教育しましたが、「什の掟」の昌和では最後に「ならぬことは、ならぬことなり」との言葉で締めくくられたそうです。
「ならぬことは、ならぬことなり」とは「してはならないことは、してはなりません」という意味ですが、「什の掟」はある意味、理屈を超えた強制であり、まさに「教育とは強制」を謳っています。
武道空手の指導を任とする私が「教育とは強制」に共感を感じるのは、武道が武士道であるがゆえです。
またそれ以外にも共感を覚える理由がありますが、それは空手が型を重視するからです。

【強制、技の理合(りあい)】
指の先から足の先まで、全身の形が稽古動作で決められている型は身体への強制です。
型における身体への強制は技の理合(技の根拠となる道理、合理的な動作、あるいは技と技のつながりのこと)となりますが、型の一つとしての前屈立ちは足幅を横に肩幅、縦に肩幅の2倍に広げ、前足の膝を曲げ、後ろ足の膝を伸ばし前足に体重を乗せます。
後ろ足を前方に送り移動する前屈立ち移動では、移動するあたり後ろ足で床を蹴らないという理合の体得が意図されています。

床を蹴って移動するならば、床を蹴る動作の基軸となる後ろ足は、その膝を曲げておかねばなりません。
前屈立ちで後ろ足の膝を伸ばすのは、床を蹴る動作を生じさせないためです。
前屈立ちの最大要点として後ろ足の膝を伸ばすことは指導されますが、初心者は最初なかなかに前屈立ちにおいて後ろ足の膝を伸ばす意識が整いません。
昔と今の日本人の体の使い方は違いますが、その点を書くと長くなるので今回は割愛しますが、昔は床を蹴るという動作が日本人において少なかったらしく、比較的に前屈立ちの移動などの身体操作はすんなりと身についたものと思われます。

しかし現代の日本人の動作は床を蹴るような反動を使う動作が多いため、前屈立ちの移動のような動作は習得が難しくなっており、それゆえ空手の型における強制的要素は強くなっています。
【強制の意義、理念、理合】
強制は空手においては理合を得てこそ、強制の意義が成り立ちます。
教育における強制の意義は、空手の理合に相当する理念が成立してこその意義に思います。

教育の最大理念とは自立ですが、結果として自立を奪うことになる生徒の死亡事故などが起きてしまう教育に理念は存在しないように思います。
話の筋が少し違うかもしれませんが、先般、沖縄の辺野古沖で高校生が犠牲となった事故が起きました。
修学旅行の行程での事故と報道されていましたが、あの事故の修学旅行に教育の理念は成り立たず、冒頭に述べた対談動画に感じた違和感も教育の理念の有無にあります。

理念、理合などが成立してこその強制の意義は成り立ちますが、空手は強制を稽古体系に含みます。
私は自身が理合を示すことで、自身が指導する稽古の強制が成り立つよう精進したいと思います。
2026.5.12
















































