空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

主体性を持つことのススメ、主張のできる人材育成

 自分の事より他人の事を優先するなどの〝公の精神〟が日本人は旺盛と言われています。

 東日本大震災の時には、海外であのような震災が起こると略奪などが起こるのが普通であるところ、ほとんどそのようなことがなかったのは日本人の公の精神によるものと言われていますが、時には自分を犠牲にしてまでも他人や周囲を優先する公の精神は日本人の美質として海外から驚嘆、そして称賛されています。

 しかし、自分より他人を優先する公の精神は同調的思考に陥りやすく、主体性を損なう要因になるとも言われています。

 昨今では日本人の美質である公の精神は保ちつつ、各個人がもっと主体性を持った社会を目指さなければならないとの声が高まっていますが、本来、日本の社会には主体性を培い、なおかつ各個人の主体性が不可欠な世界があります。

 

【技を盗む、主体性】

 寿司職人の世界では親方が弟子を育てるのに手取り足取りといった細やかや指導はせず、弟子は親方の仕事に接し、その技を盗むように寿司職人としての技能を高めるのが伝統です。

 師からの丁寧な指導を受けず、師の技に接し、その技を盗みながら技能を高める修行は寿司職人の世界のみに限らず、日本の様々な技能に関する世界は概ね、同様の修行スタイルです。

 自ら技を身につける意思を持ち、身につける努力を続ける、技を盗むことは主体性である主体的行動ですが、日本社会の様々な技能世界は主体性によって培われてきたと言っても過言ではありません。

 それなのに日本社会に主体性が希薄な印象があるのは、欧米では主体性に一般的に伴う〝主張〟が伴ってないからに個人的に思います。

 

【欧米と日本の主体性の違い】

 日本社会の主体性の希薄さは、欧米人の視点から指摘されるところですが、欧米人は主体的であり、欧米人の主体性は主張によって顕在的です。

 欧米では主張に主体性が伴わないと信用に結びつかない文化が根付いているため、自分の言葉に責任を持って行動するような主張と主体性の一体感があるように思います。

 それに対し日本人の主体性は弟子が師に対して意見などを述べることのない徒弟関係に根付いているため主張がなく、主張がないがために主体性もないように見られる一面があるように思います。

 海外との関わりがこれからますます重要になってくる日本社会にあっては、自分の主張をはっきり言える日本人が必要です。

 しかし自分を主張できる日本人を増やすためには、主張のみに捉われてならないように思いうます。

 

【稚拙な日本人の主張】

 もっと自分をしっかり主張するべきといった風潮やSNSの普及によって以前に比べれば、主張する日本人も増えてきています。

 しかしSNSで見かける日本人の主張には稚拙なものが多いように思います。

 それは日本人が主張と主体性を結びつける文化を持たないがために思います。

 自分の発言には責任を持つことが主張には一番大切ですが、どうにも日本人の主張は単に好き勝手なことの言いたい放題な感があります。

 主張の責任として主体性を結びつける感覚を持つことが、これからの日本社会には必要に思いますが、それには技能世界を中心した主体性の育成方法を日本社会の様々な世界分野に広げることが一つの手段になると思います。

 

【主体性をもとにした主張】

 日本人の主体性は先述の通り技能の世界に根ざします。

 空手をはじめとする武道も技能、〝技の世界〟です。

 武道も本来は師の技を盗み、弟子は技量を高めるものです。

 昨今は武道もスポーツ化が進み、手取り足取りといった指導が求められるようになりました。

 私も空手指導者として昨今の時流に従い手取り足取りの指導を行いますが、技を盗む指導方法も残しています。

 私が指導において自身で見本を見せるのはそのためです。

 また道場生の主体性を育むため、礼儀指導なども細かくは指導しません。

 細かい礼儀指導のない道場は武道らしさを損なうように思われるかもしれませんが、道場生は先輩たちがすることに習い礼儀を身につけていきます。

 礼儀を主体性でもって身につけることは、礼儀の根幹であり礼法の要諦である〝他者意識〟の培養です。

 他者意識は冒頭の公の精神の根底でもありますが、新極真会徳島西南支部では公の精神などの日本人の美質に連なる道場生の主体性を育み、主体性をもとにした主張のできる人材の育成を目指したいと思います。

 
 2026.7.29

日本人の精神と心、欧米人が抱える精神と心のギャップ

 最近、読んだ本に興味深い統計データが掲載されていました。

 日米の高校生に関係する統計データですが、以下の通りです。

・「お金持ちは尊敬される」と思う人、アメリカ73%、日本25%。

・「自分の主張を貫くべきだ」と思う人、アメリカ36%、日本8%。

・「他人のためよりも自分のためを考えて行動したい」と思う人、アメリカ40%、日本11%。

 日米両国の国柄が反映された面白い統計と思いますが、統計に反映された日米の国柄は両国の歴史や文化から生じたものに思います。

 

【フロンティア・スピリットと新自由主義】

 私の浅い知識では日米の国柄に至る両国の歴史や文化を語ることはできませんが、アメリカで7割強の高校生が「お金持ちは尊敬される」と思う理由は、アメリカを発展させたフロンティア・スピリット(開拓精神)にあると思います。

 そしてフロンティア・スピリットが欧米を中心に世界的な潮流となった新自由主義(政府による市場への介入を最小限に抑え、自由競争こそが経済の効率的な発展をもたらすとする経済思想)と結びつき、自由競争を勝ち抜く手段として「自分の主張を貫くべきだ」「他人のためよりも自分のためを考えて行動したい」と思う人がアメリカでは日本よりも4倍前後も多いのだと思います。

 

【欧米人が抱える精神と心のギャップ】

 一般的にアメリカのみならず欧米人は自己主張が強く、日本人は控えめとされますが、上記の統計はそれをよく表していると思います。

 しかし私が興味深く思えるのは自己主張と言える「自分の主張を貫くべきだ」「他人のためよりも自分のためを考えて行動したい」と思う人の約4割という割合は、日本人の割合に対しては多いもののアメリカ人全体に割合に対しては半数に至らない点です。

 逆に上記の統計によると約6割の人は「自分の主張を貫くべきだ」「他人のためよりも自分のためを考えて行動したい」とは思わないことになりますが、フロンティア・スピリットが反映された新自由主義の織りなすものの一つは自己主張に思います。

 「お金持ちは尊敬される」と思う人が7割いれば、「自分の主張を貫くべきだ」「他人のためよりも自分のためを考えて行動したい」と思う自己主張の強い人が7割いても不思議はないと思います。

 なのに、そうならないのはアメリカを繁栄させたフロンティア・スピリットの闇となる先住民の歴史、新自由主義が生んだ格差社会などが影響しているように思います。

 仮に精神を理想、心を情緒のニュアンスで区別すると、欧米の人たちは精神と心の間にギャップを抱えているように思い、上記の7割に至らない理由はそのギャップを表しているように思います。

 そしてギャップを抱えるゆえに武道などの日本文化に、多くの欧米人が惹かれるのだと思います。

 

【日本人の精神と心のギャップ】

 〝もののあわれ〟〝諸行無常〟という情緒は日本文化の根抵ですが、そういった情緒は〝清貧〟などの日本人の心のありようを育みました。

 清貧は武士道精神としても尊ばれる心ですが、清貧に表れるように日本人は昔から質素に耐えられる性質であると言われ、昔から日本人の多くは質素です。

 性質は情緒による心の働きですが、日本人において精神と心のギャップが全くないものではありませんが、清貧と質素が合一するように日本人の精神と心のギャップは極めて小さいものに思います。

 

【平安時代、江戸時代の長い平和な時代が保たれた要因】

 日本人の精神と心のギャップの小ささは抽象的なことでなく、歴史事実がそれを示します。

 精神と心のギャップの小ささは、精神と心の合一として精神と心の安定となりますが、日本は平安時代で約350年、江戸時代で約250年という世界史的に稀な平和な長い時代が存在します。

 平安時代、江戸時代の長い平和な時代が保たれた要因は、島国という地理的条件もありましたが、日本人の精神と心の安定が根幹にあります。

 治乱興亡が繰り返され、そして今も続いている欧米の歴史、その歴史により精神と心のギャップを抱える欧米人は今後も増えるように思います。

 私は現在、インバウンド対象も含むTokushima武道ツーリズムに取り組んでいますが、Tokushima武道ツーリズムのテーマは武道精神である〝武士道精神の発心〟です。

 精神と心が合一されたものこそが武士道精神ですが、自身の稽古、そして道場生への指導において武士道精神を高め、Tokushima武道ツーリズムのテーマを深めていきたいと思います。

 2026.6.9

 

【お知らせ】

 週一のペースで更新してきた当ブログですが、Tokushima武道ツーリズムの準備が本格化してきましたので今後は不定期に更新していきます。

引き続き、よろしくお願いいたします。

武道が重視する規律のススメ、規律=均一化がもたらす多様性

 週末の土日、5/30・5/31は京王アリーナTOKYOにて第10回JFKO全本空手道選手権大会が開催されました。

 新極真会徳島西南支部からタイセイ君が出場、2回戦敗退でした

 同大会は体重別では国内最高峰レベルの大会ですが、そこを勝ち抜くのは並大抵ではありません。

 今の実力では大会レベルに跳ね返されたような結果ですが、今回の結果が限界ではありまらせん。

 タイセイ君には、さらなる精進を重ね、挑み続けて欲しいと思います。

 タイセイ君、そして同行された保護者もお疲れ様でした。

 また素晴らしい大会に参加させていただき、緑JFKO理事長をはじめとする大会関係者の皆様、ありがとうございました。

 

 さて、同じクラブのチームメイトが練習している横で練習に加わらず一人遊びに興じる児童、先日そんな動画をSNSで見かけました。

 投稿者はその児童の保護者でした。

 チームメイトの練習に意を介さず一人遊びをする動画の他に、そのスポーツは個人競技でしたが高い集中力を見せて児童が試合をしている動画も載せられており、動画に添えられた投稿者の保護者のコメントはおおまかに以下の3点の内容のでした。

 ・子供はやる気のオンとオフを使い分けている、練習に加わらないのはやる気をオフにしてやる気エネルギーを蓄えている

 ・やる気・オンの時は素晴らしいパフォーマンスを見せる

 ・やる気・オンの時に見せる才能をチームメイトと同じ練習をするなどの規律に縛られることから守ってあげたい

 投稿の意図としては〝規律によって才能が縛られたり、潰されたりすることから才能を守りたい〟との意味に私は解釈しましたが、「なるほど、才能がフォーカスされやすいスポーツでは、こういった論法も成り立つものか」と思いました。

 じままな感じがしますが、様々な多様性が唱えられる現代社会、スポーツでは受け入れられる論法であり、またスポーツの本質には沿うものかもしれません。

 しかし、武道では受け入れ難い論法です。

【才能の世界であるスポーツ】

 スポーツは野球などの団体競技であってもメジャーリーグの大谷選手のように個人が注目されやすいものです。

 個人への注目は個人の才能へのフォーカスですが、スポーツは楽しむことがその本質です。

 スポーツで自分の才能を発揮させることは、スポーツを楽しむことの一つになります。

 またスポーツは、その観戦者を楽しませます。

 観戦者に与える楽しみはプレーヤーの才能であり、才能に様々な楽しみが重なるゆえにスポーツでは才能が尊重されやすくなります。

 スポーツは〝才能の世界〟と言えるように思います。

【礼の世界である武道】

 スポーツが才能の世界であるのに対し、武道は〝礼の世界〟です。

 礼の本質は秩序であり、秩序は規律のもとに成り立ちます。

 上記の児童のように練習中に一人遊びをする行為は秩序を乱す行為であり、武道では受け入れ難い行為です。

 武道は礼の世界であるゆえに秩序、そして規律を重んじます。

 ではなぜ、武道は礼の世界であり規律を重んじるのでしょう。

 それは武道の本質は、精神修養であるからです。

【スポーツの本質は楽しむこと、武道の本質は精神修養】

 私は常々スポーツと武道は本質的に違うものと思っていますが、その理由は上記【 】内の本質の違いからです。

 精神的な本質の違いを持つもののスポーツと武道は、本質において共通事項もあります。

 それは、それぞれの本質が生産性を持つことです。

 スポーツの生産性はそのまま楽しみであり、心のリフレッシュなどをもたらします。

 それに対し、武道の生産性は人格の形成などに繋がる心の高まりです。

 両者の共通する生産性は、ともに心の充足としての共通性を持ちます。

【スポーツと武道の本質のこれからの社会への適応】

 スポーツと武道、両者の本質が持つ生産性は、多様性などの新たな価値観が次々と生まれる現代社会ではより一層、その本質に沿った生産力の向上が望まれます。

 スポーツはこれまでの価値観ではじままに思えても、上記のような児童を受け入れる余地を広げるべきかと思います。

 しかし武道は規律を根底に持つ武道の生産性を守り、堅持することが大切であり、そうすることがこれからの社会への適応になるかと思います。

【誰でも等しい強さを身につけることができる多様性】

 誰でも様々な才能を持っています。

 才能は十人十色であり、才能は多様性そのものです。

 一面的に才能を抑制する規律は、同じ意識を共有する点において十人十色を1色にするような均一化です。

 均一化は等しさであり一見、多様性とは対義的ですが、しかし規律における均一化は実は多様性を含みます。

 規律における多様性。

 武道は規律である礼を重んじる稽古によって「身体の大きいものだけ…」といった才能によらず、誰でも等しい強さを身につけることができます。

 それは見方を変えれば「強くなりたい」と思い、礼という規律による稽古を積めば、誰でも強くなれる点において、どんな才能を持つものでもその願いが叶う多様性です。

 多様性の暴走がますます激化しそうなこれから社会においては、武道のような規律における多様性の示し方は必要に思います。

 新極真会徳島西南支部は礼の世界である武道として、規律を重んじる稽古で様々な才能を持つ道場生に向き合いと思います。

2026.6.2

組手の反則への許容のススメ、人の未熟さへの許容

 子供は総じて未熟です。

 空手道場で子供が空手を習う意義の一つは、未熟から成熟への成長を目的とするところにあります。

 大人も未熟なところがありますが、大人も自分の未熟さを認識し、幾つになろうとも成熟を心がけねばなりません。

 私が空手の稽古を続ける理由の一つは自分の未熟さに向き合うためですが、自分の未熟さを認識し、それに向き合うことは武道精神である謙虚さとなるものです。

【社会に必要な子供の未熟さへの許容】

 人は成熟への努力を怠ってはなりません。

 成熟への努力を怠ってはならない最大の理由は、未熟であることは時として人に迷惑をかけるからです。

 未熟な小さい子供は、公共の場で大きな声を出すなどの迷惑を周囲にかけます。

 そのような場合、たいていは親が子供をたしなめるものですが、人への迷惑をたしなめられることを繰り返し、子供は成長し成熟していきます。

 子供の迷惑は親がたしなめるのが一つの理想ですが、それには子供の迷惑をいちいち周囲の大人が咎めたてない子供の未熟さへの許容が社会には必要です。

 許容できる範囲はありますが、子供の未熟さへの許容は人に優しい社会の一つの形態です。

 

【未熟ゆえに生じる組手の反則】

 未熟ゆえの迷惑は空手道場でも発生しますが、空手における未熟ゆえの迷惑の代表例は組手における反則です。

 組手はルールのもとに行われるもので、当然ルールを破る反則はしてはなりません。

 我々の空手のルールである顔面殴打などの反則は、口内裂傷が生じ相手に対して非常に迷惑をかけます。

 組手は反則が生じないことが理想であり当然のことですが、反則が生じない組手のために一番大切なことは、組手を行う当事者同士が反則をしないことを第一に心がける事が必要です。

 とはいえ組手では、故意ではなく偶発的に反則は生じるものです。

 組手は空手の本質であり、空手を学ぶうえで欠くことの出来ない稽古です。

 組手稽古の質を高めるために組手においては反則をしないことへの意識を高め、偶発的な反則に対してはこれも限度がありますが許容することが大切です。

 反則は未熟ゆえの行為であり、反則への許容は未熟さへの許容となります。

 〝自分は反則しない意識を高め、相手の反則に対しては許容する〟そういった心構えは、人に優しい社会の構築の一端を担う心映えとなるもので、人の心のあり方を示す一つの道である武道精神となります。

 

【反則に対応できる技】

 未熟ゆえの反則への許容は、指摘はしてもいちいち厳しく咎めないことが基本姿勢となりますが、反則に対して技を用いて対応する方法もあります。

 技を用いる反則への対応は反則による迷惑の回避となりますが、自分の技量を高める稽古の取り組みの一つにもなります。

 相手の攻撃は何が来ようといったんバックステップ、後方に下がれば被弾せずに済みます。

 私が尊敬する方は「バックステップは万能のディフェンス方法」と指導されていましたが、

 私も稽古でよくバックステップを指導します。

 ディフェンスとして万能のバックステップは、相手の〝技の起こり〟に対して起動させます。

 突き蹴りは突く前、蹴る前に肩の当たりが先に動きますが、それを技の起こりと言います。

 私も自身の組手で、よく相手の技の起こりに合わせてバックステップを用います。

 バックステップで躱した突きが鼻先をかすめ「今の突き、バックステップをしてなければ顔に当たっていたな」と思うことが時折ありますが、バックステップは反則に対応できる技です。

 さすがに全ての反則に技を用いて完璧に対応できるものでなく、また技で反則に対応することは非常に難しいですが、反則に対応できるこちらは反則にならない技は確かに存在します。

 

【起こりへの反応、武道精神の所産】

 反則に対応できる技の一つの必要条件は技の起こりへの反応の体得ですが、起こりに対する反応は反則に対する技だけでなく、空手の技量自体を高めます。

 起こりは口頭で説明されても、なかなか認識しにくいものです。

 起こりへの反応は丁寧な約束組手の反復で体得できますが、丁寧な約束組手には稽古に対する素直さや謙虚さが必要です。

 私は起こりへの反応は素直さや謙虚さ、そして許容、それらを複合する武道精神の所産であると認識しています。

 武道精神は人の未熟さを許容してこその心でもありますが、空手道場は帯の色で道場生の成熟度あい、未熟さを可視化できます。

 未熟さの可視化は未熟さへの許容の表れですが、空手道場は人の未熟さを許容する文化を持つコミュニティーです。

 私はこの文化を大切にし、そこから生まれる技を道場生に伝えていきたいと思います。

 2026.5.26記

 

 <支部内連絡>

 今週末に東京で行われるJFKO全日本大会への逢坂の出張のため、以下の道場の稽古はお休みとなります。

5/28(金)…徳島市加茂道場

5/29(土)…美馬道場・徳島市加茂道場

6/1(金)…阿南道場

 以上、よろしくお願い致します。

清く潔よき〟を勝負の道理とすることのススメ、相撲の方屋開口

 先般、ある方から〝方屋開口(かたやかいこう)〟というものを教えていただきました。

 方屋開口は、大相撲の土俵祭で勝負や土俵の由来を言上する祝詞であり、内容は以下の通りです。

 〝天地開け始めてより陰陽を分かり、清く明らかなるもの陽にして上にあり、これを勝ちと名づく。重く濁れるもの陰にして下にあり、これを負けと名づく。勝負の道理は天地自然の理にして、これをなすは人なり。清く潔よきところに清浄の土を盛り、俵をもって形となすは、五穀成就の祭りごとなり。ひとつの兆しありて形となり、形なりて前後左右を東西南北、これを方という。その中にて勝負を決する家なれば、今はじめて方屋を言い名づくなり。〟

 個人的に興味深いのは、勝負に五穀成就を祈念している点です。

 

【公共の福祉、五穀成就】

 相撲は古事記に記載がある我が国最古の競技と言えますが、現代の観念からするとスポーツをはじめとする競技の勝ち負けは個人、もしくチームに帰結されるものです。

 であるのに勝ち負けを個人に帰結させず、五穀成就の祈念とする方屋開口は、現代とは異なった勝ち負けに対する視点が感じられます。

 方屋開口に言上される〝五穀成就〟。

 五穀が実れば人々は豊かに暮らせます。

 五穀成就とは公益であり、公共の福祉の概念です。

 我が国最古の競技、広義の意味においてスポーツでもある相撲は、勝ち負けに公共の福祉の祈念しています。

 

【スポーツと相撲の勝ち負けの違い】

 勝ち負けが個人、もしくはチームに帰結される現代においては、それによって勝者としてのスーパーヒーローが誕生します。

 スーパーヒーローは人々や社会を熱狂させますが、現代ではスポーツの熱狂の裏にはスポーツウォッシングがよく取り沙汰されています。

 スポーツウォッシングとはネットで調べると以下の通りです。

〝国家や企業が人権侵害、汚職、不正行為などの不都合な事実を、スポーツの持つ感動や人気を利用して隠蔽・浄化(ウォッシュ)し、イメージ向上を図る「プロパガンダ」手法〟

 スーパーヒーローへの熱狂の影にスポーツウォッシングがちらつく現代社会のスポーツの勝ち負けと、勝ち負けを公共の福祉としての五穀成就を祈念とする相撲とでは大きな違いが伺えます。

 

【五穀成就の条件】

 勝ち負けが五穀成就の祈念となるには、その勝負が方屋開口にあるよう〝清く潔よき〟勝負であることを条件とします。

 〝清く潔よき〟が勝負の道理、天地自然の理となり五穀が実るとする方屋開口には、古い時代から受け継いでこられた日本人の心が感じられます。

 

【方屋開口と武道の親和性】

 方屋開口には武道との親和性が感じられますが、それは方屋開口が相撲の発祥当時からの日本人の心であり、武道精神もまた武士道精神としての日本人の心であるからに思います。

 加えて、その親和性を強める要因は相撲が我が国最古の競技であり、現代の武道競技のルーツとなることも要因に思います。

 現代の武道、特に空手は競技が盛んですが、空手競技のルーツを相撲に根ざすことは武道競技としてのアイデンティティを確立させるものです。

 武道競技のルーツを根ざすことにおいて一番大切なことは、方屋開口にあるように、〝清く潔よき〟を勝負の道理とすることです。

 空手指導者として、我が国の勝負の道理を体現できる選手を育成したいと思います。

 2026.5.19記

強制のススメ、強制の理念、理合

 一昨日の日曜日(5/10)は大阪府門真市で大阪東部錬成大会、徳島県三好市でオアシス杯でした。

 大阪東部錬成大会を運営された新極真会大阪東部支部・阪本師範、阪本道場スタッフの皆様、オアシス杯を運営された聖空会山本道場・山本師範、山本道場スタッフの皆様、大会に参加させていただきありがとうございました。

 大阪東部錬成の組手ではユノちゃん、タイト君が優勝、型ではユイト君、リトちゃん、タイシン君が優勝、オアシス杯の組手ではリュウイ君が優勝、タツキ君が2位でした。

 勝った人も、負けた人も、よく頑張りました。

 保護者の皆様も同行、お疲れ様でした。

 

 さて、今は故人となった有名政治家の動画を最近、SNSでよく見かけます。

 共感することが多く、ついつい見入ってしまいますが、先日「教育とは強制」との自身の信念を語る動画を見かけました。

 その関連動画で私が子どもの頃、あるスパルタ教育で有名な元スクール経営者との意気投合した対談動画も見かけしたが、そのスクールは生徒の死亡事故を引き起こし、昔、世間から非難されただけに「教育とは強制」と論じる主張に共感を覚えつつも違和感も感じました。

 

【強制、「什の掟」】

 武士道教育で名高い江戸時代の会津藩(現福島県西部)には「什の掟」というものがありました。

「什の掟」とは以下の通りです。

 年長者の言うことに背いてはならぬ

 年長者にはお辞儀をしなければならぬ

 嘘を言ってはならぬ

 卑怯な振る舞いをしてはならぬ

 弱い者をいじめてはならぬ

 戸外で物を食べてはならぬ

 戸外で婦人と言葉を交わしてはならぬ

 この掟を旨として幼少期(6才〜9才)の藩士師弟を教育しましたが、「什の掟」の昌和では最後に「ならぬことは、ならぬことなり」との言葉で締めくくられたそうです。

 「ならぬことは、ならぬことなり」とは「してはならないことは、してはなりません」という意味ですが、「什の掟」はある意味、理屈を超えた強制であり、まさに「教育とは強制」を謳っています。

 武道空手の指導を任とする私が「教育とは強制」に共感を感じるのは、武道が武士道であるがゆえです。

 またそれ以外にも共感を覚える理由がありますが、それは空手が型を重視するからです。

【強制、技の理合(りあい)】

 指の先から足の先まで、全身の形が稽古動作で決められている型は身体への強制です。

 型における身体への強制は技の理合(技の根拠となる道理、合理的な動作、あるいは技と技のつながりのこと)となりますが、型の一つとしての前屈立ちは足幅を横に肩幅、縦に肩幅の2倍に広げ、前足の膝を曲げ、後ろ足の膝を伸ばし前足に体重を乗せます。

 後ろ足を前方に送り移動する前屈立ち移動では、移動するあたり後ろ足で床を蹴らないという理合の体得が意図されています。

 床を蹴って移動するならば、床を蹴る動作の基軸となる後ろ足は、その膝を曲げておかねばなりません。

 前屈立ちで後ろ足の膝を伸ばすのは、床を蹴る動作を生じさせないためです。

 前屈立ちの最大要点として後ろ足の膝を伸ばすことは指導されますが、初心者は最初なかなかに前屈立ちにおいて後ろ足の膝を伸ばす意識が整いません。

 昔と今の日本人の体の使い方は違いますが、その点を書くと長くなるので今回は割愛しますが、昔は床を蹴るという動作が日本人において少なかったらしく、比較的に前屈立ちの移動などの身体操作はすんなりと身についたものと思われます。

 しかし現代の日本人の動作は床を蹴るような反動を使う動作が多いため、前屈立ちの移動のような動作は習得が難しくなっており、それゆえ空手の型における強制的要素は強くなっています。

 

【強制の意義、理念、理合】

 強制は空手においては理合を得てこそ、強制の意義が成り立ちます。

 教育における強制の意義は、空手の理合に相当する理念が成立してこその意義に思います。

 教育の最大理念とは自立ですが、結果として自立を奪うことになる生徒の死亡事故などが起きてしまう教育に理念は存在しないように思います。

 話の筋が少し違うかもしれませんが、先般、沖縄の辺野古沖で高校生が犠牲となった事故が起きました。

 修学旅行の行程での事故と報道されていましたが、あの事故の修学旅行に教育の理念は成り立たず、冒頭に述べた対談動画に感じた違和感も教育の理念の有無にあります。

 理念、理合などが成立してこその強制の意義は成り立ちますが、空手は強制を稽古体系に含みます。

 私は自身が理合を示すことで、自身が指導する稽古の強制が成り立つよう精進したいと思います。

 2026.5.12

日本人としての当たり前の心のススメ、学校の掃除はタダ働き?

 日本の学校で行う生徒の掃除はタダ働きであり、不当とみなす意見をSNSで見かけました。

 不当とする引き合いに、欧米では学校の掃除を専門の業者がすることをあげていましたが、日本における学校での掃除は、言うまでもなく教育の一環です。

 欧米では掃除を教育とすることを、日本の教育の良さとしてならう学校もあります。

 

【希薄になりつつある日本人としての当たり前の感覚】

 掃除が教育の一環となることは、個人的に日本人としての当たり前の感覚のように思い、今更そのことについて述べることもありません。

 ただ学校の掃除を教育とするその本質への価値観が現代の日本において変化していることには、日本人としての当たり前の感覚が希薄になっているようで、個人的に少なからず危惧を覚えます。

 日本人としての当たり前の感覚は海外では、高く評価される一面があります。

 先日の新聞に日本の公立小学校のドキュメンタリー映画を制作された監督さんが「それでも息子を日本の小学校に通わせたい」という著書を出版され、その出版にちなんだ記事が掲載されていました。

 監督さんはイギリス人と日本人のハーフで、ご自身がイギリスと日本の両方の学校に通われたそうです。

 大変、興味深く、私も読んでみようと思いますが、その記事には「当たり前過ぎて気付かない日本の教育の良さを残していくべき」といった内容の監督さんのコメントが掲載されていました。

 

【時代の変遷となる価値観の取捨】

 価値観の変化は、ある意味での価値観の取捨です。

 取り入れられる価値観と捨て去れる価値観の変遷が時代を織りなしますが、一つの価値観においても価値観の取捨は生じます。

 ブログでしつこく書いていますが、〝武道〟精神とは〝武士道〟精神です。

 武士とは昔の階級ですが、武士という階級は現代の日本社会においては消失しました。

 しかし武士道精神は根強く残り、武士の別称である侍を冠したサムライジャパン・サムライブルーのように現代日本において、武士道精神は日本人の心のそのものとなっています。

 武士道精神は心のあり様であり、一つの価値観ですが、武士道精神においては、人の階級における武士は消失しましたが、その精神は残りました。

 武士は消えても武士道精神は残ったという、この変遷は階級・身分の不合理性が啓蒙された時代の変化にともなう一つの価値観内の取捨を表します。

 

【武道精神という日本人としての当たり前の心】

 武士道精神の〝士〟は武士という階級を示します。

 文字通り武道精神は、武士道精神から士が除かれた表記です。

 武道精神としての表記には昔からの、そして現代にまで残る日本人の心である武士道精神が、時代の変化における価値観の取捨にともない武道精神として継承されたことを示しています。

 時代の変化、価値観の変化にさらされても捨て去られなかったその継承は、日本人としての当たり前の感覚が作用したがためです。

 武道精神は日本人の当たり前の感覚が残した心ですが、それがゆえに武道精神自体が日本人としの当たり前の心です。

 多様性の曲解など、日本人としての当たり前の感覚が希薄になりつつある現代社会、空手などの武道は稽古の最後に全員で掃除を行うなどの〝日本人として当たり前の心〟が凝縮されています。

 私は空手指導者として、海外で評価される武道精神、日本人としての当たり前の心を自身が高め、それを伝えていきたいと思います。

 2026.4.26記

 

<支部内連絡>

 明日(4/29)の水曜日の鴨島道場の稽古は祝日のためお休みです。

 次の日曜日(5/3)は四国岡山合同稽古です。

 今回の稽古場所は西条市総合体育館です。

 参加する道場生の皆さんは頑張りましょう!!