空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

強制のススメ、強制の理念、理合

 一昨日の日曜日(5/10)は大阪府門真市で大阪東部錬成大会、徳島県三好市でオアシス杯でした。

 大阪東部錬成大会を運営された新極真会大阪東部支部・阪本師範、阪本道場スタッフの皆様、オアシス杯を運営された聖空会山本道場・山本師範、山本道場スタッフの皆様、大会に参加させていただきありがとうございました。

 大阪東部錬成の組手ではユノちゃん、タイト君が優勝、型ではユイト君、リトちゃん、タイシン君が優勝、オアシス杯の組手ではリュウイ君が優勝、タツキ君が2位でした。

 勝った人も、負けた人も、よく頑張りました。

 保護者の皆様も同行、お疲れ様でした。

 

 さて、今は故人となった有名政治家の動画を最近、SNSでよく見かけます。

 共感することが多く、ついつい見入ってしまいますが、先日「教育とは強制」との自身の信念を語る動画を見かけました。

 その関連動画で私が子どもの頃、あるスパルタ教育で有名な元スクール経営者との意気投合した対談動画も見かけしたが、そのスクールは生徒の死亡事故を引き起こし、昔、世間から非難されただけに「教育とは強制」と論じる主張に共感を覚えつつも違和感も感じました。

 

【強制、「什の掟」】

 武士道教育で名高い江戸時代の会津藩(現福島県西部)には「什の掟」というものがありました。

「什の掟」とは以下の通りです。

 年長者の言うことに背いてはならぬ

 年長者にはお辞儀をしなければならぬ

 嘘を言ってはならぬ

 卑怯な振る舞いをしてはならぬ

 弱い者をいじめてはならぬ

 戸外で物を食べてはならぬ

 戸外で婦人と言葉を交わしてはならぬ

 この掟を旨として幼少期(6才〜9才)の藩士師弟を教育しましたが、「什の掟」の昌和では最後に「ならぬことは、ならぬことなり」との言葉で締めくくられたそうです。

 「ならぬことは、ならぬことなり」とは「してはならないことは、してはなりません」という意味ですが、「什の掟」はある意味、理屈を超えた強制であり、まさに「教育とは強制」を謳っています。

 武道空手の指導を任とする私が「教育とは強制」に共感を感じるのは、武道が武士道であるがゆえです。

 またそれ以外にも共感を覚える理由がありますが、それは空手が型を重視するからです。

【強制、技の理合(りあい)】

 指の先から足の先まで、全身の形が稽古動作で決められている型は身体への強制です。

 型における身体への強制は技の理合(技の根拠となる道理、合理的な動作、あるいは技と技のつながりのこと)となりますが、型の一つとしての前屈立ちは足幅を横に肩幅、縦に肩幅の2倍に広げ、前足の膝を曲げ、後ろ足の膝を伸ばし前足に体重を乗せます。

 後ろ足を前方に送り移動する前屈立ち移動では、移動するあたり後ろ足で床を蹴らないという理合の体得が意図されています。

 床を蹴って移動するならば、床を蹴る動作の基軸となる後ろ足は、その膝を曲げておかねばなりません。

 前屈立ちで後ろ足の膝を伸ばすのは、床を蹴る動作を生じさせないためです。

 前屈立ちの最大要点として後ろ足の膝を伸ばすことは指導されますが、初心者は最初なかなかに前屈立ちにおいて後ろ足の膝を伸ばす意識が整いません。

 昔と今の日本人の体の使い方は違いますが、その点を書くと長くなるので今回は割愛しますが、昔は床を蹴るという動作が日本人において少なかったらしく、比較的に前屈立ちの移動などの身体操作はすんなりと身についたものと思われます。

 しかし現代の日本人の動作は床を蹴るような反動を使う動作が多いため、前屈立ちの移動のような動作は習得が難しくなっており、それゆえ空手の型における強制的要素は強くなっています。

 

【強制の意義、理念、理合】

 強制は空手においては理合を得てこそ、強制の意義が成り立ちます。

 教育における強制の意義は、空手の理合に相当する理念が成立してこその意義に思います。

 教育の最大理念とは自立ですが、結果として自立を奪うことになる生徒の死亡事故などが起きてしまう教育に理念は存在しないように思います。

 話の筋が少し違うかもしれませんが、先般、沖縄の辺野古沖で高校生が犠牲となった事故が起きました。

 修学旅行の行程での事故と報道されていましたが、あの事故の修学旅行に教育の理念は成り立たず、冒頭に述べた対談動画に感じた違和感も教育の理念の有無にあります。

 理念、理合などが成立してこその強制の意義は成り立ちますが、空手は強制を稽古体系に含みます。

 私は自身が理合を示すことで、自身が指導する稽古の強制が成り立つよう精進したいと思います。

 2026.5.12

日本人としての当たり前の心のススメ、学校の掃除はタダ働き?

 日本の学校で行う生徒の掃除はタダ働きであり、不当とみなす意見をSNSで見かけました。

 不当とする引き合いに、欧米では学校の掃除を専門の業者がすることをあげていましたが、日本における学校での掃除は、言うまでもなく教育の一環です。

 欧米では掃除を教育とすることを、日本の教育の良さとしてならう学校もあります。

 

【希薄になりつつある日本人としての当たり前の感覚】

 掃除が教育の一環となることは、個人的に日本人としての当たり前の感覚のように思い、今更そのことについて述べることもありません。

 ただ学校の掃除を教育とするその本質への価値観が現代の日本において変化していることには、日本人としての当たり前の感覚が希薄になっているようで、個人的に少なからず危惧を覚えます。

 日本人としての当たり前の感覚は海外では、高く評価される一面があります。

 先日の新聞に日本の公立小学校のドキュメンタリー映画を制作された監督さんが「それでも息子を日本の小学校に通わせたい」という著書を出版され、その出版にちなんだ記事が掲載されていました。

 監督さんはイギリス人と日本人のハーフで、ご自身がイギリスと日本の両方の学校に通われたそうです。

 大変、興味深く、私も読んでみようと思いますが、その記事には「当たり前過ぎて気付かない日本の教育の良さを残していくべき」といった内容の監督さんのコメントが掲載されていました。

 

【時代の変遷となる価値観の取捨】

 価値観の変化は、ある意味での価値観の取捨です。

 取り入れられる価値観と捨て去れる価値観の変遷が時代を織りなしますが、一つの価値観においても価値観の取捨は生じます。

 ブログでしつこく書いていますが、〝武道〟精神とは〝武士道〟精神です。

 武士とは昔の階級ですが、武士という階級は現代の日本社会においては消失しました。

 しかし武士道精神は根強く残り、武士の別称である侍を冠したサムライジャパン・サムライブルーのように現代日本において、武士道精神は日本人の心のそのものとなっています。

 武士道精神は心のあり様であり、一つの価値観ですが、武士道精神においては、人の階級における武士は消失しましたが、その精神は残りました。

 武士は消えても武士道精神は残ったという、この変遷は階級・身分の不合理性が啓蒙された時代の変化にともなう一つの価値観内の取捨を表します。

 

【武道精神という日本人としての当たり前の心】

 武士道精神の〝士〟は武士という階級を示します。

 文字通り武道精神は、武士道精神から士が除かれた表記です。

 武道精神としての表記には昔からの、そして現代にまで残る日本人の心である武士道精神が、時代の変化における価値観の取捨にともない武道精神として継承されたことを示しています。

 時代の変化、価値観の変化にさらされても捨て去られなかったその継承は、日本人としての当たり前の感覚が作用したがためです。

 武道精神は日本人の当たり前の感覚が残した心ですが、それがゆえに武道精神自体が日本人としの当たり前の心です。

 多様性の曲解など、日本人としての当たり前の感覚が希薄になりつつある現代社会、空手などの武道は稽古の最後に全員で掃除を行うなどの〝日本人として当たり前の心〟が凝縮されています。

 私は空手指導者として、海外で評価される武道精神、日本人としての当たり前の心を自身が高め、それを伝えていきたいと思います。

 2026.4.26記

 

<支部内連絡>

 明日(4/29)の水曜日の鴨島道場の稽古は祝日のためお休みです。

 次の日曜日(5/3)は四国岡山合同稽古です。

 今回の稽古場所は西条市総合体育館です。

 参加する道場生の皆さんは頑張りましょう!!

道場のススメ、チームのススメ、チームの融合としての道場

 一昨日の日曜日(4/19)は高知市にて、第43回全四国空手道選手権大会が開催されました。

 大会を主催・運営された新極真会高知愛媛支部・三好師範、三好道場のスタッフの皆様、素晴らしい大会に参加させていただきありがとうございました。

 徳島西南支部からは29名がエントリー、うち

 錬成組手でユイト君、リノちゃん、八束さんが優勝、タイセイ君が2位

 選抜組手でイッシン君、イッサが優勝

 型でイッシン君、ハンナちゃんが優勝、タイガ君が2位、タイシン君が3位でした。

 今回も勝った人、負けた人、それぞれ頑張りました。

 また次の大会をめざして、頑張りましょう!!

 保護者の皆様もお疲れ様でした。

 

 さて〝道場〟と〝チーム〟、両者とも人の集まりであり、コミュニティーが生じることから類似性があります。

 その類似性から混同されがちですが、個人的には道場とチームは性質的に違うものであり、また両者の性質をうまく位置付ける必要が、空手道場には必要に思います。

 

【相互扶助の精神を高める〝チーム〟】

 〝チーム〟をネットで調べると、以下の解釈が見られます。

 〝共通の目的や目標を達成するために、補完的なスキルを持つメンバーが連携・協力して活動する少人数の集団〟

 上記に〝少人数の集団〟とありますが、実際には上記の定義に当てはまる組織的な大人数のチームも存在します。

 〝補完的なスキルを持つメンバーが連携・協力して活動する集団〟とのチームの定義からすれば国家もチームと解釈できるように思いますが、チームの定義は相互扶助の精神です。

 相互扶助は住み良い社会の構築に重要な精神ですが、団体スポーツがそれぞれのポジションがそれぞれの役割を果たし、同一目的としての勝利をめざす構図にあるのは相互扶助の精神を高めるためであり、スポーツの精神を社会性に繋げるスポーツの大いなる意義の一つに思います。

 スポーツなどを通して社会では、相互扶助の意識を高める活動が盛んに催されています。

 

【元来は単なる場所である〝道場〟】

 〝チーム〟に対して〝道場〟をネットで調べると以下の解釈が見られます。

 〝元来は仏教で釈迦が悟りを開いた場所(菩提樹下の金剛座)を指す言葉で、転じて仏道を修行する場所や、武道・芸道の稽古場を指すようになった〟

 上記の通り道場とは、本来は単なる場所です。

 しかし、宗教や武道・芸道の場所であるため精神世界となり、一般的には目的などへの意識が存在する場所として認識されています。

 意識がコミュニティを派生させ、それゆえチームとの類似性が生じますが、元来はチームが意識であるのに対し、道場は単なる場所です。

 単なる場所ではありますが、意識が存在する場所であることから空間との解釈が成り立ちます。

 

【空間である〝道場〟】

 空間を改めて調べてみると以下のとおりです。

 〝物体が存在せず広がっている場所、あるいは3次元の(縦・横・高さ)拡がりを持つ領域〟

 道場には、禅の言葉では「歩歩是道場(ほほこれどうじょう)」という、一歩一歩がすべて修行の場であるという教えもあるそうです。

 〝道場〟を〝空間〟と認識すると空間は物体が存在しないだけに物体の対義的な意識が空間には存在するものであり、そこから上記の言葉がよく理解できるように思います。

 体育施設である武道場、またはテナントなどいわゆる箱物を道場と認識しがちですが、道場は本来が精神的空間領域であり、禅的解釈からはその領域に制限がありません。

 

【一つにならない〝チーム〟】

 道場の制限のない精神的空間領域に対しチームは集団意識であり、集団は国家のような大規模になっても現在、世界に196ヵ国が存在するように集団同士が別個に存在します。

 集団はある意味一つにならない性質を持ち、その性質から他の集団との競争が起こり、それがスポーツのように平和目的ならば良いですが、国家レベルの競争になると戦争となります。

 

【〝チーム〟を融合させる〝道場〟】

 一つにならない性質を持つ集団としてのチームですが、目的意識からチーム内では結束し、相互扶助の精神が培われます。

 チームの相互扶助の精神は、社会構築にとって不可欠です。

 それゆえ相互扶助の精神が充溢する社会構築には、別個チーム間での相互扶助の精神が融合する媒体が社会には必要に思いますが、道場は制限のない精神的空間領域であることから、その役割を担えるように思います。

 「歩歩是道場」、道場は道を歩む空間領域であり、同一目的を掲げれば別個チームは歩みを共にする事ができます。

 同一目的に向かって共に歩む事が別個チームの融合となりますが、道場という空間領域が別個チームに示せれる同一目的とは、空手道場においては、私は武道精神の遵法に思います。

 

【〝空手道場〟における同一目的の掲げ方】

 多様な心を内包する武道精神には、相互扶助の精神も含まれます。

 現実として、空手道場内にはグループとしてのチームが派生しやすいものです。

 また空手は多くの流派が存在し、流派はそれ自体がチームです。 

 チーム化を免れない空手は、空手の概念そのものを道場としての制限のない精神的空間領域の概念とする必要があるように思います。

 そうでなければ、空手は武道性を失うようにも思いますが、そのためには先述の通り武道精神を空手において明確に掲げる必要があると思います。

 武道精神の掲げ方は様々にありますが、私は空手指導者として〝武道精神〟を〝技〟に表出することで武道精神を掲げたい思います。

 2026.4.21記

 

<支部内連絡>

4/23(木)の美馬道場の稽古はお休みとなっています。

道場生、保護者の皆様、よろしくお願い致します

心のゆがみを整えることのススメ、自分の立場を認識する謙虚さ

 下の写真はホームページに載せてある私の写真ですが、この写真をよく見ると右肩が下がっています。

 この写真を見て「先生、身体ゆがんでないですか?」と、先日ある道場生の方に言われましたが、身体がゆがんでいるのは実は自分でも認識しています。

 認識はしているものの写真のように何も気をとめずにおくと、ついつい身体はゆがんだままになってしまいます。

 

【身体のゆがみ】

 私の身体のゆがみは専門的に診てもらったことはありませんが、左の背中の厚みが右の背中よりも厚いために生じているように自分では感じています。

 左右の背中の厚みが違うことは鏡で肩の厚みが違う事からも見て取れますが、仰向けに寝ると感覚的に背中の左側が浮いており、水平に仰臥できていない感覚があります。

 私の背中の左右の厚みが違うのは、左の突きを集中的に稽古したため左の背中の筋肉が右よりも大きくなったように自己診断していますが、たいていの人は生活習慣、生活環境などで身体にゆがみが生じているものです。

 

【たいていの人が抱える身体のゆがみ】

 道場生を指導していると、それがよく分かりますが、稽古で行う左右の手を水平に伸ばす動作では、無意識に伸ばした右手と左手の高さが違う道場生がいます。

 そのような道場生は自然に肩幅に足を広げて立つと、足の指の開く角度が違っていたりしますが、そういった道場生には骨盤のゆがみが感じられ、骨盤のゆがみが左右の手に影響を及ぼしているように感じられます。

 身体のゆがみは不調の原因となるため、ゆがみを整えることが望ましいですが、ゆがみが身体パフォーマンスを高めることもあり一概には否定できないものと個人的に思います。

 有名なスプリンターのウサイン・ボルト選手は身体のゆがみを活かした独特の走法を確立し世界記録を樹立したそうですが、私も左の突きには自信があり、左の突きの威力を高めるために生じた身体のゆがみは、私の身体パフォーマンス的特徴として自分では受け入れています。

 ただ、時折の身体の不調がゆがみから発生していることを感じることもあり、ゆがみを整える意識は常日頃から持つようにしています。

 

【整えることができる身体のゆがみ】

 先日の稽古で、自然に左右に手を伸ばす動作で手の高さが違う道場生に感覚的に手の高さを揃えることを指導したところ、低学年の道場生だったので感覚が整わず難しいかと思いきや、きちんと水平に手の高さを揃えることができていました。

 「低学年の子どもでも自分のゆがみを意識できると、ゆがみを整えることが出来るのだ」と妙に感心しましたが、人は生活習慣、生活環境などで〝身体がゆがむ〟ように〝心もゆがみ〟ます。

 

【心のゆがみ】

 私も自分の心のゆがみを感じる事があります。

 空手に限らず指導者は自分の技術や練習方法などに自信を持つと、それを絶対的に思い他の優れた技術や方法に否定的になります。

 優れた技術や方法は一つに限らないもので、指導者は広い視野を持って様々な優れた技術や方法を認識すべき立場にあります。

 指導者が自分の技術や方法に固執するのは〝心のゆがみ〟ですが、私も自分の技術や方法に固執しがちになるのを指導者としての立場を思い返し、心のゆがみを整えることに努めています。

 先日、医師による患者への盗撮事件が報道されていましたが、医師という立場を考えるとあり得ない事件であり、こういった事件は後を絶ちません。

 あり得ない事件を起こしてしまうのは、心のゆがみを整える事が出来ないからと個人的に思います。

 身体のゆがみは自分のゆがみを認識することで調整できるものですが、心のゆがみも同様に調整できます。

 調整できないのは、自分のゆがみを認識できないためであり、ゆがみを認識できないのは自分の立場におごり、おぼれてしまうからです。

 

【心のゆがみを整える】

 心のゆがみも自分のゆがみを認識することが、ゆがみの調整には必要です。

 また心のゆがみの調整には、自分の立場を認識することも必要です。

 立場の認識が、心のゆがみの認識となり、調整となりますが、〝立場の認識〟は武道精神においては〝謙虚な心〟から生じます。

 自己肥大が煽られやすい現代社会は、自分の立場への認識が薄くなり、謙虚さが失われやすくなっています。

 上述の医師のように心のゆがみを認識できない人は、今後も増加していくように思われます。

 新極真会徳島西南支部は謙虚さによる体のゆがみと、心のゆがみを整える空手道場でありたいと思います。

 2026.4.14記

 

<支部内連絡>

4/19(日)に行われる四国大会のため以下の道場の稽古はお休みとなります。

4/18(土)…美馬道場・鴨島道場

4/20(月)…阿南道場

また逢坂の東京出張のため以下の道場もお休みなります。

4/23(木)…美馬道場

4/23(木)の休みはニュースレターでお知らせしておりませんので、ご注意ください

シビックプライドのススメ、アウシュビッツ収容所と板東俘虜収容所

 先週の土曜日(4/4)はTokushima武道ツーリズム/シビックプライド・フェスタを新極真会徳島北東あわじ支部の前川師範と共催しました。

 〝シビックプライド〟とは〝郷土の誇りをまちづくりに活かす〟などの意識ですが、地域振興を趣旨とするTokushima武道ツーリズムの一環として、今回のシビックプライド・フェスタを企画しました。

 〝武道精神に連なる徳島の歴史を学ぶ〟〝徳島の武道精神を稽古で高める〟学びと稽古の2部構成のイベント内容としましたが、1部は人道的に捕虜を扱った板東俘虜収容所の記念館であるドイツ館で職員の方にガイドしていただき徳島の歴史を学んだ後、参加者で昼食をともにし、その後親子空手教室を楽しんでもらう遠足的な内容でした。

 2部は徳島合同稽古を開催しましたが、合同稽古前のオリエンテーションでは、合同稽古からの参加者にも徳島県人が意外と知らない板東俘虜収容所の歴史を知ってもらい、板東俘虜収容所の人道は徳島の武士道精神であり、我々はその武士道精神を徳島の武道精神として受け継いでいかなければならないことをお話しさせてもらいした。

 今回のシビックプライド・フェスタには徳島県大会の大会顧問である原てつじ徳島県議会議員が1部ではドイツ館での学びにご参加くださり、2部では稽古に見学に来られました。

 また北東あわじ支部の辻指導員、将口指導員もイベントの全行程に参加していただきましたが、辻、将口指導員は2年前にポーランドへ指導に赴いたことがあります。

 その折、アウシュビッツ収容所を訪れたそうですが、アウシュビッツ収容所と板東俘虜収容所はまさに対極的存在です。

 両所の違いは感慨深く感じられたそうですが、その感慨は郷土の誇りにも感じられたそうです。

 辻、将口指導員には、また徳島合同稽古の折にアウシュビッツ収容所と板東俘虜収容所について参加者に語って欲しいと思いますが、アウシュビッツ収容所と板東俘虜収容所を知る辻、将口指導員の存在はTokushima武道ツーリズム及びシビックプライド・フェスタの意義を深めることになるかと思います。

 郷土の誇りを子ども達に育むことは、教育の最重要課題の一つです。

 今回は新極真徳島北東あわじ支部、西南支部内で開催したTokushima武道ツーリズム/シビックプライド・フェスタですが、今後は色んな方が参加できるイベントにしていきたいと思います。

 原県議をはじめとする我々の活動にご理解いただける皆様、また辻、将口指導員の人材はイベントの意義を深める大きな力となりますが、今回のTokushima武道ツーリズム/シビックプライド・フェスタにご参加いただいた皆様、誠にありがとうございました。

 2026.4.7記

試合に対する覚悟のススメ、覚悟という想像力のベクトル

 一昨日の日曜日(3/29)には、愛媛県西条市で四国岡山合同稽古が行われました。

 いつも合同稽古を企画、準備してくださる三好師範、野本師範代、今回もありがとうございました。

 参加した道場生の皆さん、ハードな稽古、お疲れ様でした。

 また同行された保護者の皆様も、お疲れさまでした。

 

 さて空手において試合に挑戦する意義は様々にありますが、試合で勝つ喜びを得ることは大きな意義の一つとなります。

 私の場合、試合に勝つことは自分への自信となり、空手を本格的に始める動機の一つになった自分のコンプレックスを解消させる喜びとなりました。

 試合に勝つ喜びは人によって様々であり、勝つ喜びはその人の人生に大きな影響を及ぼします。

 ゆえに空手指導者は試合に挑む道場生に対して、勝利へと導く指導を行わなければなりません。

 私も空手指導者として勝利へと導く指導を心掛けていますが、しかし勝利よりも先んじて指導せねばと思うことがあります。

 それは〝試合に対する覚悟〟を持つことであり、試合に対する覚悟は試合に挑む意義として個人的には一番大切な意義に思います。

 

【試合に対する覚悟】

 〝覚悟〟ネットで調べると「困難や危険、悪い結果を予測し、受け入れる準備をすることや、心構えをする意」とあります。

 空手の試合はハードです。

 我々の空手の試合では、大人は言うに及ばず子ども達の試合でもいわゆるKO、お腹を打たれその場でうずくまるような決着がありますが、KOは我々の試合では至高の勝利です。

 我々の空手の試合に引き分けはなく、試合は勝者と敗者に分かれますが、KOで勝利する勝者もいればKOで敗れる敗者もいます。

 試合は絶対に勝てるものでなく、試合に対する覚悟とは試合に負けるかもしれない、それもKOされるかもしれない、最悪の敗戦への覚悟を持つことがその一つとなります。

 

【様々な試合に対する覚悟】

 我々の試合はトーナメントで行われるため、誰と対戦するかは不確かです。

 場合によっては自分をKOさせるほどの実績を持つ強豪との対戦もありますが、覚悟にはそういった具体的な強豪と対戦することへの覚悟もあります。

 また、そんな強豪と対戦するのにKOされないために、そして勝つために、苦しくハードな稽古を自分に課す覚悟も必要となります。

 

【想像力の産物である覚悟】

 覚悟は言葉の意味からも、悲壮な暗いイメージが付きまといます。

 しかし上記の通り「困難や危険、悪い結果を予測」することから、覚悟には想像力が伴います。

 想像力は先のことの頭に描き、その先に向かって進む、未来へのベクトルとなりますが、想像力のベクトルは、そのベクトル量が多いほどに、未来を明るく照らします。

 空手の試合は様々な覚悟を持つことで勝利への道筋が開かれますが、空手の試合における覚悟は、想像力という勝利に向かう未来へのベクトルとなります。

 覚悟には陰影ばかりが付きまとうのではなく、未来を照らす光も差し込むものです。

 

【覚悟という想像力のベクトル】

 私の元選手としての自負の一つは、試合に対して覚悟をもって挑戦していたことです。

覚悟は空手の試合ばかりでなく、人生そのものに必要なことですが、私の場合、空手の試合で培った覚悟は、自分の人生を切り開く想像力のベクトルとなります。

 勝利を目指して試合に対して覚悟を持ち、その覚悟を想像力のベクトルとする。

 試合に挑む道場生が覚悟という想像力のベクトルを心に宿すことを、私は空手指導者として試合の一番大切な意義としたいと思います。

 2026.3.24記

 

【支部内連絡】

 今週の土曜日(4/4)の美馬道場、鴨島道場の稽古はイベントのためお休みです。

4/4のイベント、シビックプライド・フェスタに参加される方は、グループラインにて詳細を記載しますので、ご確認をお願いいたします。

黒帯のススメ、持続性という価値観を身につける

 一昨日の日曜日(3/22)は審査会でした。

 今回は昇段受審者がいましたが、昇段において送る言葉として審査会の最後に以下のお話をさせていただきました。

 

 春季審査会に参加された皆さん、お疲れ様でした。

 昇段審査、昇級審査を受審された皆さんは全員の昇段、昇級を認めます。

 皆さん、おめでとうございます。

 さて我々の空手では、昇段者に対して「これからが新たなスタート」との言葉がよく送られます。

 新たなスタートとは新たな起点に立つことを意味しますが、新たな起点には新たな価値観が伴います。

 今回昇段された皆さんの審査申込書のこれまでの修行年数を見ると、最も短い人で8年、最も長い人で14年でした。

 全員20歳未満の皆さんにおいて、空手ほど長い年月続けてきたことは恐らくないのではないかと思います。

 長い年月、空手を続けてきたことは持続ですが、黒帯としてこれから新たな起点に立つ皆さんにおいては〝持続性〟という価値観を新たに認識し、今後も空手をがんばって欲しいと思います。

 とはいえ、皆さんはそれぞれすでに新しい生活環境にあったり、これから新しい生活がはじまったり、またこれから進路の選択を迎えたりと今後、空手との関わり方が変わってゆく人もいると思います。

 それぞれの生活、進路にあっても空手の稽古を続けて欲しいと空手の先生としての私は思うところですが、現実、難しい場合もあるかもしれません。

 その場合、今回の昇段で得た〝持続性〟という価値観を、それぞれ生活、進路で新たに取り組むことに反映させて欲しいと思います。

 持続性をもっと物事に取り組むことは、ある意味空手の稽古を続けることになります。

 サステナブル、SDGsと持続性が唱えられる現代社会ですが、コストパフォーマンス、タイムパフォーマンスなど持続性とは対義的な効率性のみを追求する価値観も現代社会では唱えられています。

 多様化が美辞麗句として使われ価値観が氾濫する現代社会ですが、だからこそ信念が付属する持続性は大切に思います。

 空手で身につけた持続性という価値観を、皆さんの人生において大切にしてください。

 皆さんの今後の活躍を期待します。

 また昇級者の皆さん、新極真会徳島西南支部で黒帯になるには長い年月が必要です。

 皆さんも持続性を持って黒帯を目指し、持続性という価値観を身につけましょう。

 審査会に協力いただいた黒帯の皆さん、保護者の皆様もお疲れ様でした。

 

 さて、3月は別れの季節です。

 今年は進学、進級などで、例年よりも多くの道場生が新極真会徳島西南支部を去りますが、そのほとんどが長年在籍していた道場生です。

 彼らが去ってゆくのは寂しいものですが、幼かったり、頼りなかったりの表情をしていた道場生が成長し道場から巣立ってゆく姿には、道場生の成長に対する空手の先生としての喜びもあります。

 そんな道場生の巣立ちに、昨年の入院中に読んだ小説に書かれていた唐の李賀の詩の一節を思い出しました。

 

飛光 飛光 勧爾一杯酒

〝飛光よ、飛光よ、お前に一杯の酒をすすめよう〟

 

 この詩における飛光とは、時の速さを擬人化したもので、過ぎ去る時間に対する感慨の詩ですが、私も道場生の巣立ちにこの詩の感慨を覚えます。

 過ぎ去る時間には寂しさが先立つものですが、道場生の巣立ちに対する過ぎ去る時間には先述のとおり喜びもあり、飛光も悪くないかと思います。

 新極真会徳島西南支部を巣立つ皆んな、これからの活躍を祈念します。

 皆んな、がんばれ!!

 2026.3.24記

 

<支部内案内>

今週の土曜日(3/28)の鴨島道場は以下の通り時間変更および休講です。

1部クラス…14時〜15時

選手クラス…15時10分〜17時

2部クラス・アドバンスクラス…お休み


4/4(土)に行われるシビックプライド・フェスタの締切は3/28(土)です。

参加予定の方で申込みがまだの方はお忘れなきようにお願い致します。

 

3/29(日)は四国岡山合同稽古です。

参加する道場生の皆さんはがんばりましょう。