空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

礼の合理性、思いやりの合理性のススメ

 先日の県外出張の帰路、高速道路でひどい事故渋滞に遭いました。
 5kmを進むのに1時間かかり、2時間弱くらい渋滞にはまっていましたが、前日は午前と夕方から都合、7時間弱の指導を行い渋滞に遭った当日は睡眠時間4時間で一日審判業務に従事していました。
 果てしなく続くような車のテールランプの列に疲労が増幅され、気持ちがげんなりさせられましたが、ふとっ、渋滞の一角に目が止まりました。

 それは路側帯でしたが、高速道路の路側帯は車が走行できるほど広いものです。
 しかし路側帯は緊急時を除き、走行や駐停車が禁止されています。
 私がはまった渋滞でも路側帯を走る車はありませんでしたが、その当たり前の光景に今更ながら日本人の規律の正しさを感じました。

 

【規律正しさ=礼】

 私のように疲労でげんなりしている人は多かったと思いますが、誰一人として路側帯を走らない日本人の規律正しさ、地震などの大災害が起きると海外では略奪、暴動が起きるのが常と言われています。

 それに対し日本も略奪などは少し起きるようですが、炊き出しにきちんと列を作り並び、その列が長蛇であっても列を乱しません。
 そのような規律正しさに海外の人たちは驚くそうです。
 高速道路の渋滞で路側帯を走行しない規律正しさは、災害時の炊き出しの列を守る規律正しさと同質のものですが、なぜ、日本人は規律正しいのでしょうか?
 その答えの一つは、日本人が〝礼〟を重んじるからです。

 

【思いやりの心としての秩序】

 礼の根本は〝秩序〟です。
 秩序とは、AIに聞くと以下の概要が示されます。
〝社会や組織、物事が望ましい状態を保つための正しい順序、きまり、または調和のとれた状態〟
 秩序とは人の心の美徳です。
 美徳は形而上的に捉えられがちですが、秩序からは具体的な合理性が表出されます。

 災害時の炊き出しで列を乱さないのは、困っている人が等しく食事を得られるようにするためです。
 また、高速道路の渋滞時でも路側帯を走行できるようにあけておくのは、救急車などの緊急車両が通れるようにするためです。
 実際、私が先日遭遇した渋滞でも緊急車両が通って行きましたが、こういった規律の根底にはある共通の人の心があります。 
 それは困っている人とのことをおもんばかる〝思いやりの心〟です。

 

【秩序の合理性】

 私は日本人が礼を重んじる一旦は規律がもたらす合理性にあり、その合理性が思いやりの心であるがためと推察します。
 武道は礼を重んじるものであり、空手も武道として礼を重んじます。
 空手指導者は一面、礼の指導者でなければなりませんが、教える礼に合理性が伴われなければならないと思います。

 武道の世界では礼が歪み、人間関係が破綻するケースが時折生じますが、礼の歪みの主な原因は礼の合理性の欠如によるものです。 
 「礼における合理性を正すことを常に心がけねば」と空手指導者として思いますが、その正し方として最も留意すべきは、人への思いやりを根底とするような合理性を示すことにあると思います。

 

【思いやりの合理性】
 合理性においては、人は利己的な合理性に走りがちです。
 利己的な合理性は、人への思いやりの合理性とは時に相反します。

 自分の都合である合理性が優先されるべき時もありますが、逆に都合がつくならば利己的な合理性よりも人への思いやりの合理性を優先させるのが武道としての礼であり、それが武道の強さです。
 武道としての礼の合理性、空手指導者として実践し、指導して行きたいと思います。

2026.9.29記

真っ直ぐな競争心のススメ、競争心の視点

 私が師範を務める新極真会徳島西南支部の道場生の大半は小中学生です。

入会する際は入門誓約書を提出してもらいますが、小中学生の入会の場合は保護者の方が入門誓約書を記入されます。

 入門誓約書には稽古に対する希望を記入してもらう欄がありますが、その欄は保護者の方の稽古に対する希望が書かれています。

 内容のほとんどは「礼儀を身に付けて欲しい」「挨拶ができるようになって欲しい」などのお子さんの成長に関する事がですが、道場を立ち上げて26年になりますが「試合に出て勝ってもらいたい」などと書かれた入門誓約書は見た記憶がありません。

 空手をお子さんに学ばす保護者のほとんどの方は「空手、武道を学ぶことはお子さんの良い成長に繋がる」と思い、お子さんに空手を学ばすものと思います。

 しかし時折、保護者の方が空手に対して熱が入りすぎることによって、空手がお子さんの良い成長には繋がっていないように見受けられるケースが散見されます。

 そういったケースには共通点が見受けられますが、私が感じる共通点とは〝歪んだ競争心〟です。

 

【歪んだ競争心】

 我々のフルンコンタクト空手は試合が盛んです。

 試合の本質は〝競争〟ですが、競争心自体は自分を高める心としてお子さんの成長にある意味必要です。

 しかし、競争心が歪むと成長にむしろ害を与えます。

 歪んだ競争心とは、競争の視点をその場の試合のみに置くことから生じるものと思います。

 その場の試合のみに競争の視点を置くと、競争相手の強さに対して嫉妬や妬みのみを感じるようになり、競争相手の悪口を言う、どのような手段を用いても試合に勝つなどの競争心の歪みが生じ、お子さんの成長に害を及ぼします。

 

【競争心の視点】

 競争の視点は、その場の試合のみに置かず試合までの過程、そして試合後の稽古に置くべきです。

 試合までの過程に競争の視点を置くと、競争相手が身につけた強さの背景に競争相手の努力を感じるようになり、競争相手の努力に比べての自分の努力を見つめ直すようになります。

 試合の勝敗は主に努力の差から生じますが、試合に負けた場合、試合までの過程に対して自分の努力が足りなかったことを自省し「次の試合はもっと努力して勝つ事を目指そう」と、試合を区切りに これまでの過程から次に繋げる稽古の道筋を定めるようになります。

 そのような道筋を定める事がいわゆる〝武道〟としての一つ姿勢であり、保護者の方がお子さんに空手を学ばす、お子さんへの思いに沿う武道への取り組み方になります。

 

【真っ直ぐな競争心】

 私は選手あがりの指導者です。

 私は試合を区切りにこれまでの過程を見直し、これからの稽古を見据えてきました。

 道場生には試合を区切りとしての〝これまで〟と〝これから〟が一本の道筋として繋がる〝真っ直ぐな競争心〟を伝えていきたいと思います。

 また保護者の方にも、競争の視点を試合のその場に置かずにお子さんのサポートをしていただきたいと思います。

 試合はそれぞれのタイミング、都合で挑戦すれば良いものと私は思っていますが、試合は空手を武道とたらしめる背景になります。

 保護者の方にはタイミング、都合が合えばお子さんを試合へとその背を押していただきたいと思います。

 2026.9.1記

 

<お知らせ>

 本年12/6(日)、鳴門大塚スポーツパーク/アミノバリューホールで開催されるTokushima武道ツーリズム/徳島県知事杯・第2回オープントーナメント徳島県空手道選手権大会の試合参加エントリーを新極真会徳島西南支部のホームページにて開始しました。

 同大会は武道ツーリズムによる「武士道精神の発心」をテーマとした大会です。

 たくさん選手のご参加をお待ちしております。

 ぜひ、よろしくお願い致します。

主体性を持つことのススメ、主張のできる人材育成

 自分の事より他人の事を優先するなどの〝公の精神〟が日本人は旺盛と言われています。

 東日本大震災の時には、海外であのような震災が起こると略奪などが起こるのが普通であるところ、ほとんどそのようなことがなかったのは日本人の公の精神によるものと言われていますが、時には自分を犠牲にしてまでも他人や周囲を優先する公の精神は日本人の美質として海外から驚嘆、そして称賛されています。

 しかし、自分より他人を優先する公の精神は同調的思考に陥りやすく、主体性を損なう要因になるとも言われています。

 昨今では日本人の美質である公の精神は保ちつつ、各個人がもっと主体性を持った社会を目指さなければならないとの声が高まっていますが、本来、日本の社会には主体性を培い、なおかつ各個人の主体性が不可欠な世界があります。

 

【技を盗む、主体性】

 寿司職人の世界では親方が弟子を育てるのに手取り足取りといった細やかや指導はせず、弟子は親方の仕事に接し、その技を盗むように寿司職人としての技能を高めるのが伝統です。

 師からの丁寧な指導を受けず、師の技に接し、その技を盗みながら技能を高める修行は寿司職人の世界のみに限らず、日本の様々な技能に関する世界は概ね、同様の修行スタイルです。

 自ら技を身につける意思を持ち、身につける努力を続ける、技を盗むことは主体性である主体的行動ですが、日本社会の様々な技能世界は主体性によって培われてきたと言っても過言ではありません。

 それなのに日本社会に主体性が希薄な印象があるのは、欧米では主体性に一般的に伴う〝主張〟が伴ってないからに個人的に思います。

 

【欧米と日本の主体性の違い】

 日本社会の主体性の希薄さは、欧米人の視点から指摘されるところですが、欧米人は主体的であり、欧米人の主体性は主張によって顕在的です。

 欧米では主張に主体性が伴わないと信用に結びつかない文化が根付いているため、自分の言葉に責任を持って行動するような主張と主体性の一体感があるように思います。

 それに対し日本人の主体性は弟子が師に対して意見などを述べることのない徒弟関係に根付いているため主張がなく、主張がないがために主体性もないように見られる一面があるように思います。

 海外との関わりがこれからますます重要になってくる日本社会にあっては、自分の主張をはっきり言える日本人が必要です。

 しかし自分を主張できる日本人を増やすためには、主張のみに捉われてならないように思いうます。

 

【稚拙な日本人の主張】

 もっと自分をしっかり主張するべきといった風潮やSNSの普及によって以前に比べれば、主張する日本人も増えてきています。

 しかしSNSで見かける日本人の主張には稚拙なものが多いように思います。

 それは日本人が主張と主体性を結びつける文化を持たないがために思います。

 自分の発言には責任を持つことが主張には一番大切ですが、どうにも日本人の主張は単に好き勝手なことの言いたい放題な感があります。

 主張の責任として主体性を結びつける感覚を持つことが、これからの日本社会には必要に思いますが、それには技能世界を中心した主体性の育成方法を日本社会の様々な世界分野に広げることが一つの手段になると思います。

 

【主体性をもとにした主張】

 日本人の主体性は先述の通り技能の世界に根ざします。

 空手をはじめとする武道も技能、〝技の世界〟です。

 武道も本来は師の技を盗み、弟子は技量を高めるものです。

 昨今は武道もスポーツ化が進み、手取り足取りといった指導が求められるようになりました。

 私も空手指導者として昨今の時流に従い手取り足取りの指導を行いますが、技を盗む指導方法も残しています。

 私が指導において自身で見本を見せるのはそのためです。

 また道場生の主体性を育むため、礼儀指導なども細かくは指導しません。

 細かい礼儀指導のない道場は武道らしさを損なうように思われるかもしれませんが、道場生は先輩たちがすることに習い礼儀を身につけていきます。

 礼儀を主体性でもって身につけることは、礼儀の根幹であり礼法の要諦である〝他者意識〟の培養です。

 他者意識は冒頭の公の精神の根底でもありますが、新極真会徳島西南支部では公の精神などの日本人の美質に連なる道場生の主体性を育み、主体性をもとにした主張のできる人材の育成を目指したいと思います。

 
 2026.7.29記

日本人の精神と心、欧米人が抱える精神と心のギャップ

 最近、読んだ本に興味深い統計データが掲載されていました。

 日米の高校生に関係する統計データですが、以下の通りです。

・「お金持ちは尊敬される」と思う人、アメリカ73%、日本25%。

・「自分の主張を貫くべきだ」と思う人、アメリカ36%、日本8%。

・「他人のためよりも自分のためを考えて行動したい」と思う人、アメリカ40%、日本11%。

 日米両国の国柄が反映された面白い統計と思いますが、統計に反映された日米の国柄は両国の歴史や文化から生じたものに思います。

 

【フロンティア・スピリットと新自由主義】

 私の浅い知識では日米の国柄に至る両国の歴史や文化を語ることはできませんが、アメリカで7割強の高校生が「お金持ちは尊敬される」と思う理由は、アメリカを発展させたフロンティア・スピリット(開拓精神)にあると思います。

 そしてフロンティア・スピリットが欧米を中心に世界的な潮流となった新自由主義(政府による市場への介入を最小限に抑え、自由競争こそが経済の効率的な発展をもたらすとする経済思想)と結びつき、自由競争を勝ち抜く手段として「自分の主張を貫くべきだ」「他人のためよりも自分のためを考えて行動したい」と思う人がアメリカでは日本よりも4倍前後も多いのだと思います。

 

【欧米人が抱える精神と心のギャップ】

 一般的にアメリカのみならず欧米人は自己主張が強く、日本人は控えめとされますが、上記の統計はそれをよく表していると思います。

 しかし私が興味深く思えるのは自己主張と言える「自分の主張を貫くべきだ」「他人のためよりも自分のためを考えて行動したい」と思う人の約4割という割合は、日本人の割合に対しては多いもののアメリカ人全体に割合に対しては半数に至らない点です。

 逆に上記の統計によると約6割の人は「自分の主張を貫くべきだ」「他人のためよりも自分のためを考えて行動したい」とは思わないことになりますが、フロンティア・スピリットが反映された新自由主義の織りなすものの一つは自己主張に思います。

 「お金持ちは尊敬される」と思う人が7割いれば、「自分の主張を貫くべきだ」「他人のためよりも自分のためを考えて行動したい」と思う自己主張の強い人が7割いても不思議はないと思います。

 なのに、そうならないのはアメリカを繁栄させたフロンティア・スピリットの闇となる先住民の歴史、新自由主義が生んだ格差社会などが影響しているように思います。

 仮に精神を理想、心を情緒のニュアンスで区別すると、欧米の人たちは精神と心の間にギャップを抱えているように思い、上記の7割に至らない理由はそのギャップを表しているように思います。

 そしてギャップを抱えるゆえに武道などの日本文化に、多くの欧米人が惹かれるのだと思います。

 

【日本人の精神と心のギャップ】

 〝もののあわれ〟〝諸行無常〟という情緒は日本文化の根抵ですが、そういった情緒は〝清貧〟などの日本人の心のありようを育みました。

 清貧は武士道精神としても尊ばれる心ですが、清貧に表れるように日本人は昔から質素に耐えられる性質であると言われ、昔から日本人の多くは質素です。

 性質は情緒による心の働きですが、日本人において精神と心のギャップが全くないものではありませんが、清貧と質素が合一するように日本人の精神と心のギャップは極めて小さいものに思います。

 

【平安時代、江戸時代の長い平和な時代が保たれた要因】

 日本人の精神と心のギャップの小ささは抽象的なことでなく、歴史事実がそれを示します。

 精神と心のギャップの小ささは、精神と心の合一として精神と心の安定となりますが、日本は平安時代で約350年、江戸時代で約250年という世界史的に稀な平和な長い時代が存在します。

 平安時代、江戸時代の長い平和な時代が保たれた要因は、島国という地理的条件もありましたが、日本人の精神と心の安定が根幹にあります。

 治乱興亡が繰り返され、そして今も続いている欧米の歴史、その歴史により精神と心のギャップを抱える欧米人は今後も増えるように思います。

 私は現在、インバウンド対象も含むTokushima武道ツーリズムに取り組んでいますが、Tokushima武道ツーリズムのテーマは武道精神である〝武士道精神の発心〟です。

 精神と心が合一されたものこそが武士道精神ですが、自身の稽古、そして道場生への指導において武士道精神を高め、Tokushima武道ツーリズムのテーマを深めていきたいと思います。

 2026.6.9

 

【お知らせ】

 週一のペースで更新してきた当ブログですが、Tokushima武道ツーリズムの準備が本格化してきましたので今後は不定期に更新していきます。

引き続き、よろしくお願いいたします。

武道が重視する規律のススメ、規律=均一化がもたらす多様性

 週末の土日、5/30・5/31は京王アリーナTOKYOにて第10回JFKO全本空手道選手権大会が開催されました。

 新極真会徳島西南支部からタイセイ君が出場、2回戦敗退でした

 同大会は体重別では国内最高峰レベルの大会ですが、そこを勝ち抜くのは並大抵ではありません。

 今の実力では大会レベルに跳ね返されたような結果ですが、今回の結果が限界ではありまらせん。

 タイセイ君には、さらなる精進を重ね、挑み続けて欲しいと思います。

 タイセイ君、そして同行された保護者もお疲れ様でした。

 また素晴らしい大会に参加させていただき、緑JFKO理事長をはじめとする大会関係者の皆様、ありがとうございました。

 

 さて、同じクラブのチームメイトが練習している横で練習に加わらず一人遊びに興じる児童、先日そんな動画をSNSで見かけました。

 投稿者はその児童の保護者でした。

 チームメイトの練習に意を介さず一人遊びをする動画の他に、そのスポーツは個人競技でしたが高い集中力を見せて児童が試合をしている動画も載せられており、動画に添えられた投稿者の保護者のコメントはおおまかに以下の3点の内容のでした。

 ・子供はやる気のオンとオフを使い分けている、練習に加わらないのはやる気をオフにしてやる気エネルギーを蓄えている

 ・やる気・オンの時は素晴らしいパフォーマンスを見せる

 ・やる気・オンの時に見せる才能をチームメイトと同じ練習をするなどの規律に縛られることから守ってあげたい

 投稿の意図としては〝規律によって才能が縛られたり、潰されたりすることから才能を守りたい〟との意味に私は解釈しましたが、「なるほど、才能がフォーカスされやすいスポーツでは、こういった論法も成り立つものか」と思いました。

 じままな感じがしますが、様々な多様性が唱えられる現代社会、スポーツでは受け入れられる論法であり、またスポーツの本質には沿うものかもしれません。

 しかし、武道では受け入れ難い論法です。

【才能の世界であるスポーツ】

 スポーツは野球などの団体競技であってもメジャーリーグの大谷選手のように個人が注目されやすいものです。

 個人への注目は個人の才能へのフォーカスですが、スポーツは楽しむことがその本質です。

 スポーツで自分の才能を発揮させることは、スポーツを楽しむことの一つになります。

 またスポーツは、その観戦者を楽しませます。

 観戦者に与える楽しみはプレーヤーの才能であり、才能に様々な楽しみが重なるゆえにスポーツでは才能が尊重されやすくなります。

 スポーツは〝才能の世界〟と言えるように思います。

【礼の世界である武道】

 スポーツが才能の世界であるのに対し、武道は〝礼の世界〟です。

 礼の本質は秩序であり、秩序は規律のもとに成り立ちます。

 上記の児童のように練習中に一人遊びをする行為は秩序を乱す行為であり、武道では受け入れ難い行為です。

 武道は礼の世界であるゆえに秩序、そして規律を重んじます。

 ではなぜ、武道は礼の世界であり規律を重んじるのでしょう。

 それは武道の本質は、精神修養であるからです。

【スポーツの本質は楽しむこと、武道の本質は精神修養】

 私は常々スポーツと武道は本質的に違うものと思っていますが、その理由は上記【 】内の本質の違いからです。

 精神的な本質の違いを持つもののスポーツと武道は、本質において共通事項もあります。

 それは、それぞれの本質が生産性を持つことです。

 スポーツの生産性はそのまま楽しみであり、心のリフレッシュなどをもたらします。

 それに対し、武道の生産性は人格の形成などに繋がる心の高まりです。

 両者の共通する生産性は、ともに心の充足としての共通性を持ちます。

【スポーツと武道の本質のこれからの社会への適応】

 スポーツと武道、両者の本質が持つ生産性は、多様性などの新たな価値観が次々と生まれる現代社会ではより一層、その本質に沿った生産力の向上が望まれます。

 スポーツはこれまでの価値観ではじままに思えても、上記のような児童を受け入れる余地を広げるべきかと思います。

 しかし武道は規律を根底に持つ武道の生産性を守り、堅持することが大切であり、そうすることがこれからの社会への適応になるかと思います。

【誰でも等しい強さを身につけることができる多様性】

 誰でも様々な才能を持っています。

 才能は十人十色であり、才能は多様性そのものです。

 一面的に才能を抑制する規律は、同じ意識を共有する点において十人十色を1色にするような均一化です。

 均一化は等しさであり一見、多様性とは対義的ですが、しかし規律における均一化は実は多様性を含みます。

 規律における多様性。

 武道は規律である礼を重んじる稽古によって「身体の大きいものだけ…」といった才能によらず、誰でも等しい強さを身につけることができます。

 それは見方を変えれば「強くなりたい」と思い、礼という規律による稽古を積めば、誰でも強くなれる点において、どんな才能を持つものでもその願いが叶う多様性です。

 多様性の暴走がますます激化しそうなこれから社会においては、武道のような規律における多様性の示し方は必要に思います。

 新極真会徳島西南支部は礼の世界である武道として、規律を重んじる稽古で様々な才能を持つ道場生に向き合いと思います。

2026.6.2

組手の反則への許容のススメ、人の未熟さへの許容

 子供は総じて未熟です。

 空手道場で子供が空手を習う意義の一つは、未熟から成熟への成長を目的とするところにあります。

 大人も未熟なところがありますが、大人も自分の未熟さを認識し、幾つになろうとも成熟を心がけねばなりません。

 私が空手の稽古を続ける理由の一つは自分の未熟さに向き合うためですが、自分の未熟さを認識し、それに向き合うことは武道精神である謙虚さとなるものです。

【社会に必要な子供の未熟さへの許容】

 人は成熟への努力を怠ってはなりません。

 成熟への努力を怠ってはならない最大の理由は、未熟であることは時として人に迷惑をかけるからです。

 未熟な小さい子供は、公共の場で大きな声を出すなどの迷惑を周囲にかけます。

 そのような場合、たいていは親が子供をたしなめるものですが、人への迷惑をたしなめられることを繰り返し、子供は成長し成熟していきます。

 子供の迷惑は親がたしなめるのが一つの理想ですが、それには子供の迷惑をいちいち周囲の大人が咎めたてない子供の未熟さへの許容が社会には必要です。

 許容できる範囲はありますが、子供の未熟さへの許容は人に優しい社会の一つの形態です。

 

【未熟ゆえに生じる組手の反則】

 未熟ゆえの迷惑は空手道場でも発生しますが、空手における未熟ゆえの迷惑の代表例は組手における反則です。

 組手はルールのもとに行われるもので、当然ルールを破る反則はしてはなりません。

 我々の空手のルールである顔面殴打などの反則は、口内裂傷が生じ相手に対して非常に迷惑をかけます。

 組手は反則が生じないことが理想であり当然のことですが、反則が生じない組手のために一番大切なことは、組手を行う当事者同士が反則をしないことを第一に心がける事が必要です。

 とはいえ組手では、故意ではなく偶発的に反則は生じるものです。

 組手は空手の本質であり、空手を学ぶうえで欠くことの出来ない稽古です。

 組手稽古の質を高めるために組手においては反則をしないことへの意識を高め、偶発的な反則に対してはこれも限度がありますが許容することが大切です。

 反則は未熟ゆえの行為であり、反則への許容は未熟さへの許容となります。

 〝自分は反則しない意識を高め、相手の反則に対しては許容する〟そういった心構えは、人に優しい社会の構築の一端を担う心映えとなるもので、人の心のあり方を示す一つの道である武道精神となります。

 

【反則に対応できる技】

 未熟ゆえの反則への許容は、指摘はしてもいちいち厳しく咎めないことが基本姿勢となりますが、反則に対して技を用いて対応する方法もあります。

 技を用いる反則への対応は反則による迷惑の回避となりますが、自分の技量を高める稽古の取り組みの一つにもなります。

 相手の攻撃は何が来ようといったんバックステップ、後方に下がれば被弾せずに済みます。

 私が尊敬する方は「バックステップは万能のディフェンス方法」と指導されていましたが、

 私も稽古でよくバックステップを指導します。

 ディフェンスとして万能のバックステップは、相手の〝技の起こり〟に対して起動させます。

 突き蹴りは突く前、蹴る前に肩の当たりが先に動きますが、それを技の起こりと言います。

 私も自身の組手で、よく相手の技の起こりに合わせてバックステップを用います。

 バックステップで躱した突きが鼻先をかすめ「今の突き、バックステップをしてなければ顔に当たっていたな」と思うことが時折ありますが、バックステップは反則に対応できる技です。

 さすがに全ての反則に技を用いて完璧に対応できるものでなく、また技で反則に対応することは非常に難しいですが、反則に対応できるこちらは反則にならない技は確かに存在します。

 

【起こりへの反応、武道精神の所産】

 反則に対応できる技の一つの必要条件は技の起こりへの反応の体得ですが、起こりに対する反応は反則に対する技だけでなく、空手の技量自体を高めます。

 起こりは口頭で説明されても、なかなか認識しにくいものです。

 起こりへの反応は丁寧な約束組手の反復で体得できますが、丁寧な約束組手には稽古に対する素直さや謙虚さが必要です。

 私は起こりへの反応は素直さや謙虚さ、そして許容、それらを複合する武道精神の所産であると認識しています。

 武道精神は人の未熟さを許容してこその心でもありますが、空手道場は帯の色で道場生の成熟度あい、未熟さを可視化できます。

 未熟さの可視化は未熟さへの許容の表れですが、空手道場は人の未熟さを許容する文化を持つコミュニティーです。

 私はこの文化を大切にし、そこから生まれる技を道場生に伝えていきたいと思います。

 2026.5.26記

 

 <支部内連絡>

 今週末に東京で行われるJFKO全日本大会への逢坂の出張のため、以下の道場の稽古はお休みとなります。

5/28(金)…徳島市加茂道場

5/29(土)…美馬道場・徳島市加茂道場

6/1(金)…阿南道場

 以上、よろしくお願い致します。

清く潔よき〟を勝負の道理とすることのススメ、相撲の方屋開口

 先般、ある方から〝方屋開口(かたやかいこう)〟というものを教えていただきました。

 方屋開口は、大相撲の土俵祭で勝負や土俵の由来を言上する祝詞であり、内容は以下の通りです。

 〝天地開け始めてより陰陽を分かり、清く明らかなるもの陽にして上にあり、これを勝ちと名づく。重く濁れるもの陰にして下にあり、これを負けと名づく。勝負の道理は天地自然の理にして、これをなすは人なり。清く潔よきところに清浄の土を盛り、俵をもって形となすは、五穀成就の祭りごとなり。ひとつの兆しありて形となり、形なりて前後左右を東西南北、これを方という。その中にて勝負を決する家なれば、今はじめて方屋を言い名づくなり。〟

 個人的に興味深いのは、勝負に五穀成就を祈念している点です。

 

【公共の福祉、五穀成就】

 相撲は古事記に記載がある我が国最古の競技と言えますが、現代の観念からするとスポーツをはじめとする競技の勝ち負けは個人、もしくチームに帰結されるものです。

 であるのに勝ち負けを個人に帰結させず、五穀成就の祈念とする方屋開口は、現代とは異なった勝ち負けに対する視点が感じられます。

 方屋開口に言上される〝五穀成就〟。

 五穀が実れば人々は豊かに暮らせます。

 五穀成就とは公益であり、公共の福祉の概念です。

 我が国最古の競技、広義の意味においてスポーツでもある相撲は、勝ち負けに公共の福祉の祈念しています。

 

【スポーツと相撲の勝ち負けの違い】

 勝ち負けが個人、もしくはチームに帰結される現代においては、それによって勝者としてのスーパーヒーローが誕生します。

 スーパーヒーローは人々や社会を熱狂させますが、現代ではスポーツの熱狂の裏にはスポーツウォッシングがよく取り沙汰されています。

 スポーツウォッシングとはネットで調べると以下の通りです。

〝国家や企業が人権侵害、汚職、不正行為などの不都合な事実を、スポーツの持つ感動や人気を利用して隠蔽・浄化(ウォッシュ)し、イメージ向上を図る「プロパガンダ」手法〟

 スーパーヒーローへの熱狂の影にスポーツウォッシングがちらつく現代社会のスポーツの勝ち負けと、勝ち負けを公共の福祉としての五穀成就を祈念とする相撲とでは大きな違いが伺えます。

 

【五穀成就の条件】

 勝ち負けが五穀成就の祈念となるには、その勝負が方屋開口にあるよう〝清く潔よき〟勝負であることを条件とします。

 〝清く潔よき〟が勝負の道理、天地自然の理となり五穀が実るとする方屋開口には、古い時代から受け継いでこられた日本人の心が感じられます。

 

【方屋開口と武道の親和性】

 方屋開口には武道との親和性が感じられますが、それは方屋開口が相撲の発祥当時からの日本人の心であり、武道精神もまた武士道精神としての日本人の心であるからに思います。

 加えて、その親和性を強める要因は相撲が我が国最古の競技であり、現代の武道競技のルーツとなることも要因に思います。

 現代の武道、特に空手は競技が盛んですが、空手競技のルーツを相撲に根ざすことは武道競技としてのアイデンティティを確立させるものです。

 武道競技のルーツを根ざすことにおいて一番大切なことは、方屋開口にあるように、〝清く潔よき〟を勝負の道理とすることです。

 空手指導者として、我が国の勝負の道理を体現できる選手を育成したいと思います。

 2026.5.19記