空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

打たれ強くなることのススメ、打たれ強くなることとは、自由になること

 ルール上、相手の技の被弾率が高い我々の空手の組手には、突き蹴りを被弾しても、それを耐える打たれ強さが必要です。
 組手試合などは、打たれ強さが勝敗を大きく左右します。
 空手の指導者として道場生には打たれ強さを身に付けて欲しいと思いますが、打たれ強くなるには身体を大きくして、身体を頑健にすることが基本ですが、打たれ強さの根本は痛みに対する耐性です。

 痛みに対する耐性とは叩かれ、蹴られて痛くとも、それを我慢することで得る、痛みに対する〝なれ〟です。

 心の痛みは別として身体の痛みは、痛みに対して我慢を重ねることで人間は痛みに強くなり、痛みに対する耐性を得ることが出来ます。
 近年の私は膝が悪く、先日、膝の具合が少し気にかかり診療を受けた際、膝に水が溜まっていたので人生で初めて膝の水を抜くという治療を受けました。
 膝の具合が気にかかることは度々あり、多分、これまでにも膝に水が溜まっていたことはあったように思いますが、これまでは気にせず自然治癒に任せていました。
 今回はたまたま診察の際に膝に水が溜まっていて治療を受けましたが、膝への水の溜まり具合が結構重度だったらしく、普通に歩けたり、正座も出来ていましたが「よく、こんな状態で歩いたり、正座が出来ますね。」と、医師が少し驚いたように仰っていました。

 診察した医師は私が空手の指導者であることを存じられており、感嘆するように「やはり痛みに強いですね。」とも仰っていただきましたが、痛みに強いのも怪我の状況を悪化させる場合があり、気をつけなければならないとの注意をいただきました。
 痛みに強いのも良し悪しですが、ともかく私が痛みに強くなったのは、体質もあると思いますが、長年の組手の修練が影響しているように思います。

 人間は、痛みに強くなれるものです。
 痛みに強くなるには、我慢できる痛みへの我慢を重ねて、痛みへの〝なれ〟による耐性を得る苦労が必要です。

 痛みに強くなる苦労は、体質や体つきで個人によって差がありますが、苦労が大変でも我々の空手の修練者は、稽古での痛みに耐えて、打たれ強くなるべきと私は思います。

 道場生の成長は、組手でよく感じます。
 空手を習い始めた当初、組手での突き蹴りの被弾による痛みで、身体がすくんで動きが止まったり、泣き出したりする道場生は多いものです。
 しかし組手を重ねるうちに、強打を被弾しても怯まず、動きが止まらないようになりますが、それは打たれ強くなったための変化です。
 「打たれ強くなった」と感じる時ほど、私は道場生の成長を特に感じます。

 組手における道場生の打たれ強さには、内面的な心の強さを感じるものですが、私には心の強さと一緒に感じる、もう一つの心の働きがあります。

 その心の働きとは、心の〝自由〟な働きです。
 自由とは、改めて調べてみると「他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていること」とあります。
 身体をすくみ上がらせ、身体の動きを止まらせる、我々の空手の組手における痛みは、自由を奪う強制・拘束・支配に相当するものです。
 痛みが自由を奪うものであるならば、痛みに屈せず組手で思うように動き続ける様は〝自由〟そのものに私は思います。
 空手で打たれ強くなることは、組手で自由な心のままに、自由に動くことができる〝自由を身につける〟ことと私は思います。

 〝自らが痛みを知ることで、人の痛みを知る〟ことは、我々の空手が武道として培う修養精神の一つです。
 〝自らが痛みを知ること〟とは、痛みを経験することから〝打たれ強くなる〟ことでもあります。
 打たれ強くなることで「自分が打たれたら痛いように、人も打たれると痛いんだ。」と思うような、心の余裕からの気づきが生じますが、その心の余裕は自由を成分として含み、自分の心を自由に働かせるとともに〝人の心も自由であるべき〟との、気づきを与えると思います。

 社会には強制・拘束・支配などで、人の自由を阻害する輩もいます。
 人の自由を阻害する輩は、自由を奪われる人の心の痛みを知りません。
 人の痛みを知らないということは、これまで書いてきたことを逆説的に講じると〝打たれ弱い〟ということになります。
 社会には自由が必要です。

 社会の自由を守る一端は、人が打たれ強くなることにあると私は思います。
 社会的に空手、特に我々の空手の修練者は、打たれ強い人間の範となれるように思います。
 新極真会徳島西南支部では、打たれ強い道場生の育成に努めていきたいと思います。

 < ご案内 >【新極真会徳島西南支部、道場生・保護者様対象】
 今週の土曜日 (4/20) の美馬道場、鴨島道場、来週の月曜日 (4/22) の阿南道場は、第 41 回全四国空手道選手権大会 (4/21 ㈰ ) の前後のためにお休みです。
 また土曜日 (4/20) の阿南道場は 1 部クラス (18 時~19 時 15 分 ) のみ行い、2 部クラスはお休みとなります。

 4.16.2024 記

昇段を節目とすることのススメ、竹は節目が増えることで高く、強くなるもの

 一昨日の日曜日は型特別稽古、審査会、懇親会でした。
 型特別稽古は今年の末に行う、指導員昇段審査を受審する指導員の皆さんを対象とした内容の稽古でした。

 三段・二段に挑戦する指導員の皆さんには、指導員審査を受審するにあたって、新極真会の全ての型を一通り覚えもらうことを条件としました。
 今回は最高難易のスーシホとカンクウの稽古でしたが、有志道場生の一般参加も認めました。

 低学年の道場生の参加もありましたが、積極的に型を覚えることは、とても良いことです。
 型特別稽古は今年は数回開催する予定で、普段の稽古では行わない難易度の高い型をその都度行う予定です。
 道場生であれば、誰でも参加 OK です。
 有志の道場生は、遠慮せずに参加してください。

 なお型特別稽古では、見本役をハナちゃん、ミツキちゃんにお願いしましたが、二人ともありがとうございました。

 懇親会は、審査会での昇段、また参加者で今春、進学、昇進した道場生の皆さんのお祝いも兼ねました。

 私も楽しいひと時を過ごせましたが、みなさん、おめでとうございます。

 新たなステージでの、皆さんの活躍を祈念します。

 

 さて、私は道場生の昇段を一つの節目によく例えますが、以下は今回の審査会の最後に節目についてお話しさせてもらったことを、一部を改めてブログにした内容です。

 今回、昇段審査を受審したミリウちゃんは、怪我を抱えての昇段審査でしたが、よく頑張りました。
 審査での頑張り、そしてこれまでの長年の稽古での頑張りを認め、初段への昇段を認可しました。
 ミリウちゃん、おめでとうございます。

 昇段、黒帯になることは空手を学ぶ上での大きな節目ですが、昨年末の昇段者の一人が昇段レポートの中で節目についてふれていました。
 その内容は、竹は節目が増えることで高く伸びるものであり、また節目が多ければ多いほど、竹はより高く、そしてより強く成長するもので、黒帯になることを竹の節目のように、これからの自分の成長へと繋げたいといったものでした。
 とても良い一文と感心しましたが、昇段者が新たに腰に巻く黒帯は、正に竹の節目のようなものです。

 組手で直接突き蹴りを当てる、我々が学ぶ空手は、非常に厳しい空手です。
 厳しいゆえに、我々の空手の節目として得る黒帯は、それを巻く人の成長の証 ( あかし ) にふさわしいものと思います。
 今回、昇段したミリウちゃんは、今春、高校 3 年生となりますが、高校 3 年生は人生の岐路を決める人生の大きな節目です。
 ミリウちゃんには、人生の岐路としての節目において、今回の空手の節目を矜持とし、立派な竹のように強く、そして、しなやかに自分の素敵な未来へと進んで欲しいと思います。

 また、ミリウちゃんが空手で節目を迎えれたのは、空手を学ばせてくれたご両親のお陰です。
 ミリウちゃんには、空手を学ばせてくれたご両親に感謝の念を持って欲しいと思いますが、ご両親に報いるには節目を与えてくれた感謝よりも大切なことがあります。
 これからミリウちゃんは、長い人生においてたくさんの節目を迎えます。
 今回の節目においてのご両親への感謝よりも大切なこととは、人生におけるその都度の節目でしっかりと自分を成長させることです。

 人の節目による成長は、一生、続くものです。
親は一生、子の親であり続けます。
 親にとって子の成長は、何よりの喜びとなります。
 今回の昇段のような素敵な節目を、ご両親にずっと見せてあげて欲しいと思います。

 ミリウちゃんの、未来に期待します。

 また今回、昇級審査を受審した道場生の皆さんにおいては、昇級は昇段への節目となります。
 昇段には昇級として 10 コの節目を必要としますが、その 10 コの節目をしっかりと連ねて、道場生の皆さんにおいても昇段の節目を迎えて欲しいと思います。

 ところで、昇段レポートで節目にふれた昇段者ですが、彼は稽古に帯をよく忘れてきます。
 帯を忘れてくるたびに白帯、オレンジ帯、青帯、黄帯と、これまで身につけてきた色の帯をつけて稽古してきました。
 先々月には帯に飽き足らず道着も忘れて、着てきたジャージで体験入門者のように稽古しましたが、ひょっとすると彼が帯や道着を忘れてきたことは、これまでの自分の節目を忘れないためだったのかもしれません。

 節目を振り返ることで「初心を忘れない」といったことかもしれませんが、初心を忘れないことよりも、稽古には帯と道着を忘れないことの方が大切です。
 節目を振り返ることは良いことですが、道場生の皆さんには節目の振り返り方を間違えず、帯と道着を忘れずに稽古を重ね、節目を連ね、竹のように大きな空に向かって真っ直ぐ、高く、そして強く成長していって欲しいと思います。

 一昨日の型特別稽古、審査会、懇親会、各行事に参加された道場生、保護者の皆さん、お疲れ様でした。

 4.9.2024. 記

「No pain, no gain」良質な精神的苦痛のススメ、多様化のもと、その多様性が失われつつある精神的苦痛

 先週の水曜日 (3/27) は、新極真会山東支部のシズクちゃんが出稽古に来てくれました。

 当支部のミツキちゃんと大会、四国・岡山合同稽古で仲良くなった縁での出稽古ですが、こういった縁が生まれることは空手指導者として嬉しく思います。

 一緒に稽古した道場生も大いに刺激を受けたようですが、シズクちゃん、出稽古に来てくれてありがとうございました。
 また、ぜひ来てください。
 保護者様も遠方よりの同行、お疲れ様でした。

 また先週の日曜日 (3/31) は支部内強化稽古 (9 時~12 時 ) を行いました。
 前回の支部内強化稽古 (3/20) より、それまで年齢で 2 クラスに分けていた支部内強化稽古を 1 クラスにしました。
 参加制限も設けませんでしたが、当支部の強化稽古は試合に勝つための特別稽古です。

 試合に勝つためには、自分を追い込むような稽古が必要です。
 試合に挑戦する道場生には、その認識をして欲しいと思いますが、自分を追い込む稽古とは、内心「やりたくない」と思うような稽古です。
 自分を追い込む稽古ができる道場生は、当支部ではまだまだ少ないのが現状です。
 しかし、わずかながら中高生を中心とした道場生は、稽古で自分を追い込むことができます。

 そのわずかの道場生の稽古姿勢に、多くの道場生が感化されることを意図したのが、支部内強化を統合した一番の理由です。
 自分を追い込む稽古は、人から追い込まれるのではなく、文字取り、自分で自分を追い込むことがベストです。
 年齢に応じた追い込み方がありますが、試合に挑戦する道場生には、自分を追い込む姿勢を身に付けて欲しいと思います。

 参加した道場生の皆さん、お疲れ様でした。
 付き添いの保護者の皆様も、お疲れ様でした。

 さて先日、徳島新聞の朝刊に、下の添付画像の記事が掲載されていました。

 同校は私が住む徳島県西部に位置し、過去、全国的に一大フィーバーを巻き起こした野球の強豪校だけに、個人的にちょっとショッキングな記事に思いました。

 スポーツ指導者のハラスメントは、今や日常的にあるものです。
 報道で知るスポーツハラスメントには、報道で知るだけでも指導者の思い上がりなどが原因に思える事案が多いものですが、この記事に報道されるハラスメントは、一概に指導者の非と断定されるものではないように個人的に思います。

 新聞記事だけでは実情はうかがい知れないように思うこの事案ですが、複雑な背景があるように思われるこの事案は指導者、生徒、そして保護者などの第三者三者間に精神的苦痛への認識の違いがあるのが遠因の一つに思います。

 スポーツ競技における精神的苦痛。
 私は元武道競技者ですが、武道、スポーツに限らず、そもそも競技で勝利を目指すには、練習での精神的苦痛は必要と私は思っています。

 精神的苦痛である「やりたくない」と思うようなハードな練習なくして、競技で勝つための強さは身につきません。
 往年の強豪校とはいえ、今でも競技野球に専心的な問題になっている同校野球部の練習においては、勝つための精神的苦痛は同校野球部の前提条件的に昔から存在していたように思います。

 また競技を通して経験する精神的苦痛を乗り越え、それから身につく強さを人生に反映させることは、競技の重要な意義となるもので、その点においては練習での精神的苦痛は肯定されてしかるべきに個人的に思います。
 なぜ、同校において精神的苦痛の認識の違いが生じたのかを勝手に思うに、指導者においては精神的苦痛の与え方や伝え方に不備があり、生徒、第三者においては受け取り方への浅はかさがあるように思います。

 私は現在空手指導者ですが、我々の空手は競技が盛んなため試合に挑戦する道場生には、勝利を目指して、精神的苦痛である「やりたくない」と思うようなハードな稽古を指導します。
 私も指導者として、生徒である道場生に精神的苦痛を与えますが、その与え方には私なりに細心の注意をしています。
 注意は多岐に及びますが、私が道場生の名前を敬称を用いて呼び捨てにしないのは、その注意の一つです。

 また強くなるためには精神的苦痛が必要なことを、ただ単に至当の事実として伝えるようにもしています。
 私が注意を払う道場生への精神的苦痛の与え方、伝え方は、敬意を持って道場生に接することで、威圧的でなく厳格的に強くなるための至当の事実のみを与え、伝えることに集約されるものです。

 強くなるために精神的苦痛は必要ですが、それを名目にした単なるハラスメントに過ぎない指導者による精神的苦痛も、先に「スポーツ指導者のハラスメントは、今や日常的」と書いたように昨今は多いものです。
 単なるハラスメント、精神的苦痛はそれこそ拒絶すべきものですが、精神的苦痛は、人を強くするなどの人を成長させる有益なもの、人の精神に害をなす有害なものなど、元来、是非に別れて多様に分類されるものに思います。

 感じた精神的苦痛が、有益か、有害かは、本来は感じた本人、または当人が子どもであれば保護者などの第三者が見極めれるものと思いますが、昨今、精神的苦痛は一緒くたにされ、精神的苦痛は全て有害とする浅はかな風潮があるように思います。
 実際のところ社会に不適切であり、当人のためにも改めるべきことが個性とされ、多様性の重視の名目でそういった個性が看過されるといったことは、現代社会ではよくあることのように思いますが、上記の風潮はその余波にも思います。

 指導者が生徒のために改めるべきこととして与えた精神的苦痛であっても、受け止める側の生徒が改めるべき自分を受け止めず、浅はかに単なる精神的苦痛としてしまうようなことが、精神的苦痛の多様性を喪失させているように思いますが、そういったことが指導者と生徒、または第三者の間に精神的苦痛への認識の違いを生むものに思います。

 多くの物事で多様性の本質が、浅はかな多様化よって喪失しているように思う現代社会ですが、新極真会徳島西南支部では、元来、多様である精神的苦痛の良質成分である

 「No pain, no gain」( 痛みなくして得るものなし )

 この強くなるための至当の真理を標榜し、稽古における良質な精神的苦痛を精製、提供していきたいと思います。

 < ご案内 >【新極真会徳島西南支部、道場生・保護者様対象】
 次の日曜日 (4/7) は、型特別稽古 (9 時~10 時 15 分 ) 及び審査会 (10 時 30 分~12 時 30 分 ) です。
 型特別稽古では従来カンクウ、スーシホを行うように案内しておりますが、四国大会の指定型になっているサイファ、ゲキサイ小も同時に行います。
 四国大会の型部門出場者でサイファ、ゲキサイ小が指定型になっている道場生で都合の良い人は参加してください。

 なお審査会の昇級者の組手審査は、通常稽古のスパーリング形式で行います。
 5 ラウンド ×3 セットなど、進行時間に合わせてラウンドとセット数を設定します。
 組手審査のスパーリングでは、受審者以外の参加も OK です。
 型特別稽古の参加者など、都合の良い道場生は参加してください。

 4.2.2024 記

整列を儀礼とせずに礼法とすることのススメ、整列に修練の要諦を取り入れる

 一昨日の日曜日 (3/24) は徳島市において、神武會舘さん主催の第 2 回全四国空手道選手権大会・神武杯 < 第 11 回徳島県空手道交流大会・併催 > でした。

神武會舘・西山館長、神武會舘のスタッフの皆様、大会に参加させていただき、ありがとうございました。

 新極真会徳島西南支部からは 24 名がエントリー。

 型でイッシン君、オウシロウ君が優勝、アヤネちゃん、アルト君が 2 位、イマリちゃん、カナト君、ユアちゃん、ヒナタ君、ソウシロウ君が 3 位。
 組手でエイタ君、アヤネちゃんが優勝、レイサ君、イッシン君 ( フェニックス戦 )、ソウシロウ君が 2 位でした。
 入賞できた人、惜しくも入賞できなかった人も、皆んなよく頑張りました。

 次の大会を目指して、また頑張りましょう !!
 保護者の皆様も、お疲れ様でした。

 さて話は変わりますが、複数で行う武道の稽古では、空手に限らず整列が稽古でよく用いられます。
 整列は整然と行い、そして整然とした整列から厳粛な雰囲気を醸し出すために、武道の稽古ではよく用いられます。

 私も稽古での整列は重視していますが、上記のような儀礼的な目的のみならず、主に下記の 2 点のような実質的な修練効果のためにも重視しています。

 整列における修練効果・その 1 < ポジション感覚 >
 私が指導する通常クラスの稽古では下記の図のように整列して、正座、準備運動、基本稽古…と稽古を進めていきます。

 2 列目以降の稽古参加者は、まず最前列者の真後ろに立つように指導しますが、人の真後ろに立つには、人の背面の正中線と自分の正面の正中線を合わせる事で、真後ろとなるポジションに自分の身を置く事ができます。
 空手の組手は、相対する対戦者に対しての立ち位置、身の置き所であるポジションが攻防の優位性を大きく左右します。
 組手のポジションは、相手に対する立ち位置からなる角度によってポジショニングされます。
 相手と真正面で向き合う正対が0度の角度とすると、相手を自分からして正面に据え、自分は相手に対して例えば45度の角度に位置取れば45度のポジショニングとなります。

 0 度のポジショニングでは正対するため双方の攻撃が 100% の効力で攻防されますが、45 度のポジショニングでは自分は 100% の攻撃効力を保持しつつ、相手にとっては感覚的に角度分のパーセンテージ、つまり 45% の攻撃効力が削減されることになります。
 自分の攻撃効力を保持しつつ、相手の攻撃効力を削減させることから、ポジショニングは組手の攻防を大きく左右するものです。
 組手においては、相手を中心にして自分に攻防が有利に働くポジショニングの角度を瞬時に割り出す感覚が必要となりますが、それが組手におけるポジション感覚となります。

 ポジショニングのためのポジション感覚は、相手の中心軸と自分の中心軸を合わせる 0 度の角度から有利な角度を割り出していくものですが、ポジショニングの基本となる 0 度の角度の感覚を身に付けることがポジション感覚には必須となります。
 整列は相手の正中線と自分の正中線を合わせることで、ポジショニングの基本となる 0 度のポジション感覚を身に付けるための有効な稽古となります。

 整列における修練効果・その 2 < 認知能力の向上 >
 私は少年部クラスのミット稽古で 2 列に道場生を整列させる時、下の図のようにミットの持ち手である A と B、ミットを打つ C と D を先に並ばせ、それを基準として E、F、G、H が A、B、C、D に倣って並ぶように指導します。

 A、B、C、D に倣えば、E、F、G、H のそれぞれの自分の並ぶべき位置は自明となりますが、A、B、C、D に倣うには認知能力が必要となります。
 認知能力は〝見る力〟〝聞く力〟〝想像する力〟などで、子ども達の学習能力の根幹となり、重大な犯罪を犯す少年に欠如している能力と言われています。
 認知能力は子ども達にとって成長期に高めるべき最も大切な能力ですが、上記のような整列で働かせる認知能力は基準に倣う〝想像する力〟を養うものです。
 年齢の低い子ども達は総じて、このような整列でまごつきますが、回を重ねることでスムーズに整列ができるようになります。

 〝想像する力〟を高める手段の一つには、上記のような基準に倣って〝想像できるシチュエーション〟を何度も経験することが適うかと思います。
 上記のような整列は〝想像できるシチュエーション〟を与え、空手の上達のみならず、子ども達の将来的な可能性を広げる、認知能力を高める修練効果があると個人的に思います。

 先のブログで礼法は、一般的な礼法においても武道修練の要諦が根底にあることを書きましたが、通常、整列は儀礼的になりがちです。

 しかし、上記のような修練効果を主眼にすることで、儀礼的な整列も礼法となるものに思います。
 新極真会徳島西南支部では、通常的な儀礼に修練の要諦を含ませ礼法とし、精錬された修練効果のある武道としての空手の指導を心掛けたいと思います。

 3.26.2024 記

〝脱〟田舎者のススメ、空手で身に付ける謙虚さ

 先週の金曜日 (3/15)~日曜日 (3/17)、山梨県にて新極真会 U-22 強化合宿で開催されました。

 同合宿は新極真会の 22 歳以下の有望選手が全国から結集し行われる合宿で、徳島西南支部からはトキ君が選手として、私はオブザーバーとして参加しました。
 全日本トップクラスが参加する同合宿、組手が中心の合宿メニューの中でトップ選手、強豪選手との組手でボロ雑巾のようになりながらも、トキ君、よく頑張りました。
 お世辞抜きでボロボロになりながも、気持ちと技術の向上が見られました。

 この経験を 4 月の四国大会、そしてこれまでの空手人生の集大成となる 5 月の JFKO 全日本大会に活かして欲しいと思います。
 トキ君、お疲れ様でした。
 保護者様も合宿に、ご理解いただきありがとうございました。

 そして道場生が所属道場だけでは出来ない成長に繋がる稽古の機会を与えていただいた、新極真会・緑代表をはじめとする U-22 強化合宿に携わった皆様、素晴らしい合宿を誠にありがとうございました。
 私は新極真会支部長として、引き続き U-22 強化合宿に参加できるような選手育成を徳島で頑張っていきたいと思います。

 さて話は変わりますが、最近読んだ小説の一文に「都会人らしい節度…」との表現がありました。
 小説の主題とは何の関係もない一文で、単なる小説の一場面の描写でしたが、私にはこの一文が深く心に残りました。
 〝都会人らしい節度〟その対義的意味をうかがえば、〝田舎者の節度の無さ〟といったことが、個人的に思い浮かびます。

 私が読んだ小説の作者は〝田舎者の節度の無さ〟といったことは、夢想だにもせず上記の一文を綴ったと思いますが、私は〝都会人らしい節度〟から勝手に連想する〝田舎者の節度の無さ〟には、大いに得心するものであり、そのため上記の一文が深く心に残りました。

 〝節度〟を改めて調べると「度を越さない、適当なほどあい」とあります。
 〝節度〟の対義的意味合いの一つは〝傲慢〟であると思います。

 以前のブログで「夜郎自大」という、ことわざについて書きました。
 「夜郎自大」のことわざとしての意味は「自分の力量を知らない人間が、仲間の中で大きな顔をしていい気になっていること」であり、人の傲慢な様を示すものです。

 また「夜郎自大」の由来は、以下のとおりです。
 「夜郎」は中国、漢の時代の西南の地にあった未開部族の国の名。
  「自大」は自らいばり、尊大な態度をとること。
  漢帝国の大きさを知らない夜郎国の王は、自国に漢の使いが来たとき、自国のみが大国だと思い込んで、「わが国と漢とではどちらが大きいのか」と尋ねたという故事から。

 〝夜郎〟は田舎者と捉えることが出来ますが、田舎者が傲慢であることは国を超えて故事になるくらいの様々な民族の共通の風俗であり、そういった風俗が長い歴史の中で自然と〝都会人らしい節度〟といった対義的な通俗を人々の潜在意識に植えつけたように思います。

 田舎者の傲慢さは単なる昔の風俗でなく、今でも田舎で連綿と息づいています。
 私が住む徳島県の美馬地域はいわゆる田舎ですが、「あいつはダメだ」などと、有名な野球選手の成績不振をこき下ろすような会話が日常生活でよく聞こえてきます。
 そんな会話を聞くたびに、私は「自分はこき下ろす野球選手ほどに、野球は出来ないだろうに…」などと思い、へきえきとします。
 田舎は何事にも遅れ、停滞していますが、その最大の要因は田舎の人間の傲慢さにあるように私は思います。
 傲慢な田舎の風俗は改めるべきに、私は私自身が田舎に住む田舎者だからこそ思います。

 傲慢を改めるには、節度と同じく傲慢の対義である〝謙虚〟を身に付けることが必要と思います。
 謙虚を身に付ける一つの手段は、夜郎自大のことわざの意味や由来を鑑みるに〝広い世界を知り、自分の力量を知る〟ような経験を重ねることが有効に思います。

 先々週の JFKO 全日本青少年大会、先週の新極真会 U-22 全国強化合宿、参加した道場生は、全国の強豪選手にまみえることで〝広い世界を知り、自分の力量を知る〟経験を得たと思います。

 空手道場は、田舎にあっても謙虚さが身につく場所です。
 稽古そのもので、また稽古に付随する試合や合宿などで、謙虚さが身につく経験を空手道場は提供できます。
 〝広い世界を知り、自分の力量を知る〟その経験から得る謙虚さは、総じて人にまみえ、そして人に揉まれて得るものに思います。
 空手であっても、特に我々の空手は実際に突き・蹴りの技を当てる組手を行うために、我々の空手で人にまみえて得る謙虚さは形而下的であり、形而上的な単なる美徳に止まりません。

 実際に突き・蹴り当てる我々の空手の組手には、恐怖が付きまといます。
 我々の空手の組手の恐怖は、組手の相手に対してのものであり、人にまみえて感じる恐怖ですが、礼法にのっとる空手の組手で感じる人への恐怖は、人への畏敬と転化できるものです。
 礼法のもと、人への恐怖を人への畏敬へと転化できた時、その人の強さを認めることができます。

 人の強さを認めることが出来れば、そこから〝学び〟を得ることができます。
 〝学び〟は空手においては、学びを得たものの〝気持ち〟や〝技〟として組手で表出されます。
 我々の空手では、組手の恐怖を畏敬へと転化することで謙虚さを身につけますが、我々の空手の謙虚さは〝学び〟そして〝気持ち〟や〝技〟という形而下的な結実を実らせます。

 私は田舎に住む田舎者として、田舎者の最大の悪癖である傲慢さを改めたいと思っていますが、私は空手の指導者として、我々の空手の謙虚さの身に付け方を、我々の空手を田舎で普及させることで発信していきたいと思います。

 < ご案内 >【新極真会徳島西南支部、道場生・保護者様対象】
 明日の水曜日 (3/20) は祝日で鴨島道場の稽古はお休みですが、以下の通り支部内強化稽古を行います。
 場所…鴨島道場 時間…9 時~12 時 服装…自由
 道場生ならば、誰でも参加可能です。
 今回は誰でも参加出が出来き、かつ十分に稽古が出来るように時間をいつもより長めに設定しました。 
 稽古内容は組手の選手稽古となりますが、各自のレベルに応じてメニューなども変えたいと思います。
 都合の良い道場生は、ぜひ参加してください。

 3.19.2024 記

武道修練における信仰心のススメ、武道において信仰の対象と信仰心で捉えるべきもの

 先週の日曜日 (3/10)、国立代々木競技場・第一体育館 ( 東京都 ) にて、第 3 回 JFKO 全日本青少年フルコンタクト空手道選手権大会が開催されました。
 私は審判員として参加させていただきましたが、JFKO 緑理事長をはじめとする開催・運営に当たられた関係者の皆様、素晴らしい大会に参加させていただきありがとうございました。

 徳島西南支部からはタイセイ君が選手として出場、残念ながら 2 回戦敗退でした。
 相当悔しかったようですが、今回の敗戦を受け止め、悔しさをバネに次戦にのぞんで欲しいと思います。

 タイセイ君、JFKO 全日本青少年大会、よく頑張りました。

保護者様も、サポートお疲れさまでした。

 さて、私には物事の由来にこだわる癖があります。

 由来には物事の本質があり、由来を知ることで物事の本質を見据えることが、私が由来にこだわる癖の根本ですが、その点については良い癖だと思います。
 しかし古い由来には、現代においては由来にまつわる本質が薄れている物事もあります。
 物事には昔の由来にまつわる本質が薄れても、物事における現代の価値は影響を受けないことが多々あります。

 そういった実状からは物事の由来にこだわる私の癖は偏執的であり、由来に依った物事への言動はうざったく悪い癖のようにも思います。
 自分の癖の良し悪しを念頭に置きながら、物事の由来には関心を持ち続けようと思いますが、さて〝道場〟という言葉、現代では「武道の稽古場」との認識が一般的に思います。
 しかし道場の由来は、本来、仏教用語であり、仏道修行の場を示したものです。

 私は信仰心の薄い人間で宗教に関しては無知ですが、仏教の開祖である釈迦や釈迦の教義への信仰を深めることが仏道修行のように思います。
 武道を修練する道場は、信仰心を深める仏道修行の場としての道場をなぞらえて転用したようですが、本来、仏教の信仰の場である道場を武道の修練の場に転用したことは、武道振興において卓抜な手段になったと思います。

 武道が道場を転用し得たのは、振興手段の卓抜さによるものだけでなく、武道に何かしらへの信仰の下地が存在するためとも思います。
 個人的に武道においては、信仰心はとても大切になるものと思います。
 それは武道の信仰心は、その深さが修練者の業法の深さにもなり得る一面があるからです。
 しかし武道における信仰心は、その対象や捉え方には重々なる注意が必要であり、注意を誤れば逆に武道の信仰心は、業法を深める修練の仇になるように思います。
 武道には様々なジャンルがありますが、そのジャンルは流派などにも色分けされます。
 武道の流派は、その流派を創始した流祖の〝技術体系〟と〝技術への思考体系〟が流派としてのカラーになります。

 武道の流派における〝流祖〟は、宗教においては〝開祖〟。
 流祖の〝技術体系と技術への思考体系〟は、宗教においては〝教義〟に相当するものと思います。
 武道の信仰の対象や信仰心で捉えるべきは、宗教の教義に相当する流祖の技術体系と技術への思考体系であるべきに私は思います。
 そして信仰の注意として誤ってはいけないことは、道場における指導者個人を信仰の対象とすることだと思います。

 武道の指導者にあっては、自らへの信仰心を巧みに煽って自らを権威化し、指導下にある人を権威的に利用する人も時折見受けられます。
 武道の指導者が自らへの信仰心を煽り、自らを権威化すると、その流派の流祖からなる信仰すべき技術体系と技術への思考体系は消失し、そしてその流派の人間関係はいびつなものになるように私は思います。

 我々の空手、我々の流派が信仰すべき技術体系は、技を直接当てる〝直接打撃 ( フルコンタクト )〟であり、そして信仰心で捉えるべき技術への思考体系は、流派名に冠した〝真 ( まこと ) を極める〟ことであるように個人的に思います。

 我々の空手の創始者は「実践なくば証明されず、証明なくば信用されない。」といった言葉を遺されました。
 「実践なくば」の言葉には〝直接打撃〟の寓意があり、「証明なくば信用されない」の〝証明〟とは〝真〟であり、人間関係で最も大切なことの一つである信用は〝証明される真〟から成り立つことを説いているように、私は流祖の言葉を理解しています。
 我々の空手の技術体系と技術への思考体系は、シンプルに「口であれこれ言わず、実際にやってみろ」といった要旨に集約されると思います。

 私は、このシンプルで明快な技術体系と技術への思考体系が、大好きであり、自らの流派の誇りに思います。
 私は空手道場の指導者ですが、自らの空手の流派の技術体系と技術への思考体系を自らが信仰し、道場の由来に則した空手の道場としての意義を示して行きたいと思います。

 < ご案内 >【新極真会徳島西南支部、道場生・保護者様対象】
 今週、以下の道場の稽古はお休みとなります。
 ご確認ください。
 美馬道場…3/14 ㈭・3/16 ㈯
 徳島市加茂道場…3/15 ㈮ 
 鴨島道場…3/16 ㈯

 3.12.2024 記

自分の存在を実感することのススメ、スパーリングでの自分の技から感じる自分の存在感

 先週の私が指導するいくつかのクラスでは、下の添付動画ミット稽古を行いました。
 前蹴りと膝蹴り、そして突きのコンビネーション。


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 足の裏の中足で蹴る前蹴り、膝で蹴る膝蹴りは技のリーチが違いますが、それを組合わせることで相手との前後の間合いに変化を持たせるコンビーネーションとなります。
 前後の間合いの変化を特徴とするコンビーネーションの習得、そして同時に前後の間合いをコントロールする足捌きを習得することを主眼にしたミット稽古です。
 前後の間合いをコントロールする足捌きが出来なければ難しい稽古ですが、道場生にはしっかりとした足捌きを練り、それによって目まぐるしく変わる間合いの変化に応じられる、柔軟な対応力を持つ組手の構築を目指して欲しいと思います。

 さて先ごろ、久しぶりに稽古に参加する道場生達がいました。
 私の指導するクラスでは必ずスパーリングを行いますが、彼女達にとっては当然、スパーリングも何ヶ月、何年ぶりかのスパーリングとなりました。


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 「スパーリングのブランクは如実に動きに現れる」などと言われますが、彼女らの動きを見ていると、さほどにブランクは感じられませんでした。
 私が指導するスパーリングはいわゆる〝ライトスパーリング〟であり、ハードなヒッティングはせずに、軽く当てる突き蹴りの応酬で組手の反応力を高めることをスパーリングの主たる目的に設定しています。
 ブランクが感じられなかったのは彼女たちの反応力に対してですが、試合のようなハードなヒッティングをする〝ガチンコスパーリング〟では、彼女たちも稽古の空白によって生じたスタミナやパワーなどの低下でブランクは如実に現れたと思います。

 組手、スパーリングはパワー、スタミナ、反応力などの身体条件が、その内容を左右するものです。

 パワーやスタミナなどはブランクがすぐに組手、スパーリングの内容に反映をするものですが、反応力のブランクによる影響はパワー、スタミナなどに比べては、すぐに影響するものでないように以前から個人的に思っていましたが、彼女たちのスパーリングを見て改めて思いました。

 反応力へのブランクの影響が遅いことは、彼女達に限ったことではありません。
 幼稚園、小学校低学年で入会し、中学、高校で稽古に空白が生じた道場生が久しぶりに稽古に参加することは時折あることですが、彼らの久しぶりのスパーリングからも一様に反応力へのブランクはさほどに感じません。

 久しぶりのスパーリングでブランクを感じさせない道場生の共通点は、小さい頃から小学生の期間など長年継続的に稽古に来ていたことです。
 その共通点は、身体が大きくなる成長期に空手の稽古を欠かさなかったことですが、成長期は子どもの将来を見据え、意図的な身体づくりをすべき期間です。
 スパーリングでブランクを感じさせない反応力は、成長期の身体づくりの時期に生成された彼女、彼らの身体機能の一部であり、対人感覚でもある組手、スパーリングの反応力は、身体を動かす身体機能のみでなく彼女、彼らの身体づくりに伴って培われたマインド的なスキルにも思います。

 スパーリングでの反応力は、突き、蹴り、防御といった技となります。
 空手の組手、スパーリングは自分の手足、身体そのものが〝技〟となり、自分の身体が〝技〟として表出されるものです。

 〝技〟としての自分の身体の表出は、自分の存在そのものの表出であり、それは自分の存在の実感、実証であると思います。
 現代社会はなんでも頭で考える〝脳化社会〟であり、「脳化社会は自分の身体を忘れさせてしまう」と述べる学者さんがおられます。
 その論には「なるほど」と私も思うところですが、「自分の身体を忘れてしまう」ということは「自分の存在を忘れてしまう」ということでもあるように思います。

 牛丼店のサービスの紅生姜を直箸でかっ込む様子など、類似の動画を「面白い」と思ってでしょうが、SNS に投稿するような若者が後を絶たないようです。
 彼らの行動には「そんなことをすると、どうなるか ?」といった認知能力の無さを感じますが、それと同時に「そんなことをすると、自分がどうなるか ?」といった〝自分の存在への実感〟の無さも感じます。
 彼らは自分の存在に実感を持っていないように、そういった愚かな行動を SNS やニュースで目にするたびに思いますが、それはとても不幸なことにも思います。

 情報化が進み〝脳化社会〟とも評される現代社会では〝自分の存在〟を認知する手段が、乏しくなっているように思います。

 空手、特に実際に突き蹴りを当てる我々の空手の組手、スパーリングは、自分の存在を実感、そして実証できる最良の手段の一つに思います。

 道場生には〝自分の身体の一部としての技を身につけ〟組手、スパーリングで表出される技によって自分の存在を実感、実証して欲しいと思います。
 そして実感、実証できる自分の確かな存在を社会に適応させ、それぞれの思い描く、脳内だけでない、現実の幸福な未来を実現して欲しいと思います。

 < ご案内 >【新極真会徳島西南支部、道場生・保護者様対象】
 4/21 ㈰に高知市で開催される、第 41 回全四国空手道選手権大会の申込みの支部内締切は明日 3/6 ㈬までとなっています。
 出場予定の道場生の皆さんは、お忘れなきようにお願い致します。

 また以下の道場稽古はお休みとなります。
 ご確認ください。
 鴨島道場…3/9 ㈯・3/16 ㈯
 美馬道場…3/9 ㈯・3/14 ㈭・3/16 ㈯
 阿南道場…3/11 ㈰

 3.5.2024 記