空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

 本来の礼法のススメ、礼法の 3 つの要諦

 小笠原流礼法というものが日本の生活様式での礼法の源流となっていることは以前から知っていましたが、小笠原流礼法の正式名称の一つが小笠原流馬術礼法であり、武技・武芸である弓術、馬術の修練のエッセンスを日常生活の所作に取り入れ、礼法としていることを最近読んだ本によって知りました。

 「礼法」は〝礼の仕方〟として礼儀、礼節と並び、たいていの人が聞き覚えのある言葉だと思います。
 インターネットで礼法を改めて調べてみると、以下の内容が出てきます。

 礼法(れいほう)とは、日本において望ましいとされる行動様式や心構えを指す言葉である。 
 礼法は歴史上、様々な変遷を遂げており、敗戦直後までは小笠原流礼法が大きな影響を与えていた。 
 現代ではエチケットやマナーと混同されることが多い。

 また以下の一文も出てきます。

 敗戦後、礼法は弱体化し、洋風のエチケットやマナーが支配的となった。
 これ以降、礼法はエチケットやマナーと混同され、消費主義や商業主義と結びついた流行に留まるとする指摘がある。

 私は昔から心としての礼は大切であると思っていましたが、従来のイメージで持っていた教条的、権威的な行動様式としての礼法には正直なところ違和感を感じていました。

 礼の心は受け入れるのに、なぜ礼法に対しては違和感を覚えるのか ?
 長年、自分の中で整理が付いていませんでしたが、礼法の本来を知り整理が付いたように思います。

 私が従来イメージの礼法に違和感を覚えていたのは、礼法の本来が上記のように現代においては違っている面が多々あるからですが、最近読んだ本によると礼法の本来の源流、小笠原流馬術礼法の要諦は、以下の3 点であるとされています。

 1.「他者意識」
 2.「効率性の重視」
 3.「状況に合わせた判断」

 また「伝統的な「礼法」は現代人が理解としているような人と人が交わす挨拶のみを意味するのでなく、武技・武芸の「技」の修練を日常生活の所作に位置付けた身体行動様式として理解するのが的確である」と同書では述べられています。
 挨拶はしっかり出来るのに、その言動に他者への思いやりが見られない人をよく見かけます。
 また「普段は挨拶のしっかりしている人だったのに…」などと報道される、自身の子どもを殺害するような凶悪犯罪者もいます。

 挨拶は従来、礼義の正しさを示すとともに、挨拶がしっかり出来る人の人格の正しさを示すイメージが持たれていると思います
 しかし社会の現状として、挨拶が出来るかどうかだけでは、人の人格までは分からないように思います。
 また挨拶のみで人格を判断しようとする偏りが、上記にあるような「礼法の弱体化」になっているようにも個人的に思います。
 昨今、礼法、礼儀、礼節などは一度、社会全体で見直されるべきに個人的に思います。

 挨拶、または履物を揃えるなどの礼儀、礼節は礼法の一部です。
 無論、礼儀、礼節をしっかり身につけることは大切です。
 しかし現代社会においては礼儀、礼節を包括し、その根本となる礼法を認識し、礼法を身につけることがもっと大切に思います。
 私は礼法の行動様式の源流が武技・武芸の修練の所作であるために、礼法を認識し、礼法を身につける手段においては、武道としての空手の稽古は最適な手段の一つに思います。

 礼法は上記の 3 つの礼法の要諦を実践することで認識、身につくものだと思いますが、3 つの要諦は武道として空手を修練していれば肌感覚で理解できるものです。

 以前読んだ時代小説で「自分より身分の高い人と話す時は、その人の顔を見ない」ことが、礼法として描かれていました。
 その理由は身分の高い人への遠慮とされていましたが、視野には相手の顔を見ずとも相手を視界の中で認識できる周辺視野というものがあります。

 周辺視野の活用は武技・武芸の極意ですが、顔を見ない礼法は武技・武芸の修練である周辺視野の活用を日常生活の所作に位置付けたもののように個人的に思います。
 私が思う、空手の稽古における礼法の 3 つの要諦の実践とは以下のとおりです。

 「他者意識」…対人稽古であるミット稽古でミットの持ち手が、ミットを打つ人が打ちやすいようにミットを持つことなど。

 「効率性の重視」…スパーリングでのサポーターの装着が遅れると限られた皆んなで共有する稽古時間を無駄に削ることになるので、稽古時間を 1 秒でも皆んなで有効に使うために準備などで人を待たせないようにすることなど。

 「状況に合わせた判断」…スパーリングで対戦相手が泣いたりすると、手加減をすることなど。

 上記以外にも礼法の 3 つの要諦は、武道としての空手の稽古においては随所で実践出来るものです。

 空手の稽古から感じられる礼法の 3 つの要諦の根底は〝人への気遣い〟や〝人への思いやりの心〟であり、それは「礼」そのものの基本理念です。
 礼法は、礼の基本理念である〝人の心〟が反映された身体行動様式です。
 新極真会徳島西南支部では稽古おいて礼法を認識し、身につけ、礼法に則した礼儀を示し、礼節を保てるように道場生を導きたいと思います。

 そして稽古以外でも、礼法に即した行動様式を道場生が社会で示せれるように導きたいと思いますが、その端緒は組手の試合です。

 組手の試合で反則をしないことは、空手で学んだ礼法を道場の稽古以外で示す手始めになると私は思います。
 組手の試合、特に我々の空手の組手の試合は突き蹴りを実際に当てるため、心身が浮き足立ち、乱れがちにになります。
 組手の試合での心身の浮き足立ち、乱れはルールが決められた組手の試合においては反則を誘発するものです。
 組手で反則をせずに試合をするには心身を沈め、コントロールすることが肝要になりますが、それは稽古において上記の礼法の 3 つの要諦を作用させることで身につくものです。

 社会構造の基盤は対人関係ですが、対人事象である空手の組手の試合で礼法を実践することは、空手の稽古で身につけた自身の礼法を正し、社会参加することに繋がると思います。
 道場だけの礼法、そして道場だけの礼義、礼節とならないように礼法を見据え「弱体化した」と言われる日本本来の礼法を、空手道場から社会に発信していきたいと思います。

 < ご案内・演武会 >
 今週の祝日、2/23 の金曜日に鴨島公民館 (〒776-0011 徳島県吉野川市鴨島町鴨島1) で行われる文化祭にて 13 時頃から演武会を行います。
 ご都合の良い人は、ぜひご観覧ください。
 2.20.2024 記

空手の文化的色合いを身にまとい、色彩とすることのススメ、競技を重ねることで身にまとう空手の文化的色合い

 一昨日の月曜日 (2/12・祝日 ) は、第 3 回香川県空手道選手権大会でした。

 大会を主催、運営された新極真会香川中央支部支部長・原内師範、原内道場スタッフの皆様、道場生ともども大会に参加させていただきありがとうございました。

 新極真会徳島西南支部からは 49 名がエントリー。

 錬成・組手部門で
 キイト君、イマリちゃん、イロハちゃん、エイタ君、カジモトさんが優勝、タイト君、オウシロウ君が 2 位。

 選手権・型部門で
 団体型でイマリちゃん、アヤネちゃん、ミオちゃんチームが優勝。

 個人型でイッシンが優勝、カイト君が 2 位、コウダイ君、イロハちゃんが 3 位。
 選手権・組手部門で
 タイシン君が優勝、トキ君が 2 位でした。

 さて先日のブログで、空手は文化であることを書かせてもらいました。
 文化はそれに接する、属する、身に付けるなどする人の心を豊かにするものですが、その豊かさはそれぞれ文化の特徴が映し出す色合いによって印象付けられます。
 徳島の文化として代表的な阿波おどりならば、白地の衣装に用いられているカラフルな様々な色のように、その文化的色合いは〝鮮やか〟〝艶やか〟などの印象をたたえます。

 一方、空手の文化的色合いの印象を考えた時、私は阿波おどりと同じく白地の道着に身に付ける黒帯の漆黒のように〝深み〟が、その 1 つにあげられるように思います。

 空手は文化的特徴の一つとして、型、組手における競技を有します。
 空手競技は型、組手ともに緊張感が伴なうものです。
 型は敵を想定し、想定された敵との闘争での技を演武し、その演武の出来栄えを競う試合です。
 型競技は演武の出来栄え、その内容を競うものですが、我々の空手の型競技における演武ポイントは力強さ、スピード、技の正確性などがあります。

 型競技における演武ポイントは、型が敵との闘争を想定することから、あくまでも実戦をイメージし、そのイメージが演武する動作に反映されなければなりません。
 実戦をイメージした演武ポイントには、当然ながら技をしくじれば身を損なうような、実戦における緊張感が感じられなければ〝武を演じる〟迫真の演武には至りません。
 型競技における演武は迫真か否かが、各演武ポイントの集約された要点になりますが、型競技においては競技者の競技中の所作全てに迫真としての緊張感の表出が必須となります。

 また組手においては、我々の組手競技は実際に突き蹴りを当てるためダイレクトな緊張感がただよいます。

 我々の組手競技は相手をいわゆるノックアウトする一本勝ちが至高の勝利とされ、選手は一本勝ち、対戦相手を倒すことを念頭に競技にのぞみます。
 組手競技においては自分が対戦相手を「倒そう」とのぞむかわりに、相手も自分を「倒そう」とする中で競技します。
 我々の空手の組手競技は「倒そう」とする気迫どうしの交錯の中から緊張感が必然的に生まれますが、その緊張感には「倒される」ことへの不安や恐怖も多分に入り混じり極度的になります。

 緊張感は、心身を不安定に浮き足立たせるものです。
 特に我々の空手競技における緊張感は型、組手ともに心身の浮き足立ち方が著しいものですが、我々の空手競技は心身が浮き立つ緊張感において、いかに自身の心身を沈めるようにコントロールするかが、勝敗の分かれ目の大きな一因となります。
 我々の空手競技に挑む選手は、競技を重ねることで浮き足立つ心身を沈める術 ( すべ ) を身につけていきます。

 競技を重ねることで培われ、当人または周囲の人も感じることのできる選手の心身の〝沈め様〟は、まさに空手の文化的色合いである〝深み〟の選手の心身への反映に思います。
 空手競技で身につけた浮き足立つ心身を沈める術は、人生で出くわす困難においても作用し、困難を乗り越える人間力になると思います。
 そうした時、空手の文化としての色合いは、それを身につけた個人の色彩になると思います。
 空手の競技を重ねていくことは、空手の文化的色合いを身にまとう手段の一つになります。

 競技には勝敗がつきまとい一喜一憂するものですが、勝って奢らず、負けて腐らず競技を重ねてゆくことで空手の文化的色合いである〝深み〟は増していきます。
 そしてその〝深み〟は、漆黒の光沢のような確固たる色彩を放つものに思います。

 一昨日の香川県大会は、新極真会徳島西南支部の 2024 年の初試合でした。
 出場した道場生の皆さん、よく頑張りました !!
 2024 年もたくさんの試合がありますが、道場生の皆さんが重ねる試合経験は皆さんの人としての色彩となるものです。

 今年もたくさんの試合に挑戦して欲しいと思います。
 2024 年も頑張りましょう !!
 保護者の皆様も香川県大会、お疲れ様でした。
 2024 年もお子さんの試合へのご理解、サポートをよろしくお願い致します。

 < ご案内 >【新極真会徳島西南支部、道場生・保護者様対象】
 4/21 ㈰に高知市で開催される第 41 回全四国空手道選手権大会の申込書の配布準備ができております。
 出場希望の道場生は指導員まで申出てください。
 支部内締切…3/6 ㈬

 2.14.2024 記

空手の伝統価値から〝わざ〟得ることのススメ、武道は伝統価値から個人の〝わざ〟を生産するもの

 最近、下の添付画像の本を読んでいます。

 無知な私には知らない言葉が多く使われ、読むのに苦労していますが、内容が興味深く、新たな知識も得られ、とても勉強になっています。
 まだ半分くらいしか読んでいませんが、同書のタイトルでもある「わざを忘れた日本柔道」、〝わざ〟の喪失の要因は、柔道のスポーツ化にあり、柔道のスポーツ化を様々な視点から考察することが、同書の意図の一つと伺えます。
 最近、野球の大谷選手の契約金が話題になりましたが、現代スポーツは莫大なお金が動く商品スポーツの消費価値に立脚し、消費価値をスポーツそのものの存在意義として、その意義を高めているそうです。

 オリンピック競技である柔道も商品スポーツの消費価値の高まりに乗じ、グローバルスポーツの地位を確立しているそうですが、私は以前からブログで述べていますが、スポーツの精神的本質は〝楽しむ〟ことであると認識しています。
 スポーツをする者、またスポーツを見る者も、ひとまとめにしたスポーツを楽しむことから派生するその娯楽性、そして娯楽性から派生するスポーツの消費価値の高まりは現代社会にあっては必然であり、かつ精神的、経済的に社会を潤す要因として私はとても良いことだと思います。

 ところで私は「武道はスポーツと違う」といった考えを有します。

 そのような考えは私のみでなく、武道に携わる多くの人たちの共通意識でもあります。
 「武道はスポーツと違う」といった考え方を持つ人たちは、本来、武道として定義される現代柔道のように武道のスポーツ化には違和感を感じます。
 一例として、柔道の試合にカラー柔道着が採用された時には「武道性を損なう」といった否定的な意見が多かったそうです。
 同書も「柔道は武道であり、柔道のスポーツ化は良しとしない」スタンスであるように思いますが、柔道のスポーツ化の考察においては武道とスポーツの違いに言及しています。
 そしてその違いを現代スポーツが消費価値に立脚しているのに対し、武道は道徳修養のための〝礼〟に見られる伝統的価値に立脚するものとして武道の伝統価値を考察し、スポーツの消費価値の対抗軸として武道の伝統価値を据えることで、伝統価値から生じる武道の〝わざ〟によって示される武道の存在意義の見直しを同書では計っているように伺えます。

 私も武道関係者として武道とスポーツの違いに瑣末な私見を持ちますが、その違いを立証するのに武道の伝統価値もさりながら、スポーツの〝消費〟価値に対するもっと鮮明的な対抗軸として、〝生産〟価値を武道の存在意義の立脚点として定めることも有効のように思います。

 私見として、武道とスポーツの違いは精神性にあると思います。
 以下は以前のブログで書いた、武道とスポーツの精神性の違いに関した内容です。

 スポーツの精神性は、その語源の由来にあると私は思いますが、スポーツの語源はネットで調べると以下の通りです。
 「sports スポーツ」の語源はラテン語の「deportare デポルターレ」にさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」が転じて「憂いを持ち去る」という意味、あるいは portare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という意味の語である。
 これが古フランス語の「desporter」「(仕事や義務でない)気晴らしをする、楽しむ」となり、英語の「sport」になったと考えられている。
 上記の語源から、スポーツの精神的本質は〝楽しむ〟ことにあると思います。

 一方、武道の精神的本質。

 私は常々ブログで書くように、武道は武士道と思っています。
 武士道は「弱いものいじめをしない」などといった、武士の美意識です、
 武士道としての武道は、武士が昔の人の職業でもあったゆえに、スポーツの由来が「仕事や義務でない、気晴らし」であることに対義的な仕事的、義務的な〝すべきこと〟が精神的本質に思います。
 私見である武道の精神的本質〝すべきこと〟また、武道が昔の職業であった武士の武士道であることも相まって、私は武道の精神的本質〝すべきこと〟には生産性が含まれると思います、
 そして武道の生産価値こそが、武道の存在意義の一翼を担うものと思います。

 武道が生み出す多くは「正々堂々」などの個人の品格を高める美意識ですが、美意識は形而上的、抽象的であり、物質的な質感が薄いものです。

 物質的な質感が薄いため、武道の生産性は具体性に乏しい一面がありますが、美意識以外に武道の生産性を明瞭にする事象が武道にはあります。
 私が思うに、それは同書でいう武道としての〝わざ〟であり、空手あれば〝わざ〟に伴う〝組手の利〟です。

 空手の組手は、肉体と肉体とが物質的にぶつかる質感を伴なうものです。
 私が思う〝組手の利〟とは〝組手に勝つこと〟〝組手で負けないこと〟ですが、組手の勝ち負けは可視化できるゆえに明瞭あり、その勝ち負けの要因に目を凝らすと〝わざ〟という質感が見えてきます。

 組手の本質の一つとしての肉体と肉体のぶつかり合いは、単純的な物理法則に従えば身体の大きさ、若さなどのフィジカル的条件が有利、不利を左右します。
 しかし〝わざ〟は武道、空手においてはフィジカル的条件を凌駕するものであり、〝わざ〟そのものが有利、不利の要因となります。
〝わざ〟そのものが空手の組手の有利、不利の要因となり〝わざ〟が有るゆえに勝ちとなり、〝わざ〟が無いゆえに負けとなるために、 勝ちはもちろんのこと、負けないことにも〝わざ〟は存在し、そして負けないことにも〝組手の利〟は存在すると思います。

 空手の組手のように武道の〝わざ〟が生産する利には現物的なお金のような利は伴わず、ただの事象としての組手の勝ちのような、個人の精神的な満足としての利に過ぎません。
 しかし、その満足は娯楽で得られる満足と、個人の精神に充足をもたらす点においては同質に思います。
 スポーツは消費で満足で得て、武道は生産で満足を得る、両者とも個人の満足に帰結する点で同質ですが、満足を生み出す消費と生産の違いはあると思います。
 そしてその違いは、資源浪費による環境問題などの消費文化の過熱に影がちらつく現代にあっては、重要な違いのように私は思います。

 伝統のある阿波おどり徳島県の観光資源になっているように、現代社会にあっては伝統価値は消費にさらされ、そして消費されます。

 消費は消費者の嗜好に左右されるものですが、伝統価値がただその伝統の存在のみに存在意義を示すだけであれば、嗜好は変遷するものであるゆえ、いずれは消費しつくされるように思います。

 伝統価値は消費嗜好の変遷に消耗されない永続的な生産性をもたなければ、真の伝統とはなり得ないと思います。
 「わざを忘れた日本柔道」同書をまだ読み終えておらず、同書の結論にはたどり着いてはいませんが、武道は〝わざ〟を永続的に生産することで存在意義の一つを示せれると思います。

 武道の〝わざ〟は武道の美意識のような形而上的、抽象的なものでなく、空手の〝組手の利〟のような形而下的、具体的な事象であり、それは武道の美意識のような伝統価値に基づく稽古によって生産され、武道を学ぶ個人が得るものです。
 そして武道によって生産された個人の〝わざ〟は、〝わざ〟を得た個人によって品質保持、または品質のさらなる向上への個人の努力がなければ、武道の〝わざ〟は現代にあってはスポーツの存在意義などによって消費され、消え去るもののように思います。


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 しかし〝わざ〟を得た個人の永続的な〝わざ〟の品質保持、さらなる品質向上の努力としての〝稽古〟があれば、武道が一面的にスポーツ化されたとしても、武道の伝統価値から生成される〝わざ〟は忘れられないと思います。

 〝わざ〟に対する捉え方が、武道としてのあり方を左右するとも思いますが、私は空手の伝統価値から組手の利として得た自身の〝わざ〟の品質を保ち、向上させることを武道としてのあり方としたいと思います。

 そして〝わざ〟の生産、その品質保持、向上に空手の武道としての伝統価値=美意識が伴なうことを、道場生に〝わざ〟を指導することで伝えていきたいと思います。

 < ご案内 >【新極真会徳島西南支部、道場生・保護者様対象】
 4/21 ㈰に高知市で開催される第 41 回全四国空手道選手権大会の申込書の配布準備ができております。
 出場希望の道場生は指導員まで申出てください。
 支部内締切…3/6 ㈬

 2/12 ㈪ < 祝日 > の第 3 回香川県空手道選手権大会に出場される道場生は以下のスケジュールでに従ってください。

 錬成・組手部門出場者は 8 時 10 分の開場より 8 時 45 分まで会場アリーナ内でアップを行います。
 入場後、速やかに受付を済まし集合してください。

 型部門出場者は 11 時 30 分頃 ( 錬成・組手部門が終了次第 ) から試合開始です。
 型のアップは各自で行い、各自の責任で競技開始に遅れないように注意してください。

 なお型の競技中に県大会・組手部門出場者で、重量級以外の選手は計量が義務付けられています。
 計量も各自の責任でお願い致します。

 13 時 45 分の開会式後に行われる県大会・組手部門の出場者のアップは、12 時 45 分にサブアリーナで行います。
 型部門に出場中の道場生はアップに参加できない場合もあると思いますが、その場合は各自でお願い致します。
 指導員も型競技の審判のためアップ指示を行えない場合があります。
 その場合は桒島初段の指示に従ってください。

 またアップに使うミットの持込み協力を保護者の皆様にお願いしたいと思います。
 アップのミットは 2/10 ㈯の稽古で鴨島道場のミットをお渡しします。
 2/10 ㈯の鴨島道場の稽古参加者で、ご協力願える保護者の皆様はよろしくお願い致します。

 香川県大会にともない以下の道場は稽古時間の時間変更、休みとなります。
 鴨島道場…2/10 ㈯・時間変更 < 少年部 17 時 30 分~18 時 30 分 > < 一般部 19 時~20 時 15 分 > < 居残り稽古 20 時 30 分~21 時 30 分 > ※選手クラスは休み

 阿南道場…2/12 ㈪ < 休み >

 徳島市加茂道場…2/12 ㈫ < 休み >

 以上、よろしくお願い致します。

 2.6.2024 記

空手を文化としての身に付けることのススメ、文化の条件である〝普遍〟について

 文化である条件は〝普遍〟であることだそうです。
 〝普遍〟とは「広く行き渡ること。特に、すべての物に共通に存すること。」を意味します。

 空手には様々な流派がありますが、世界の 190 ヶ国以上に広がると言われる総体的な空手人口は 1 億人以上とする統計もあり、空手は世界に広く行き渡る、まさに〝文化〟と言えます。

 空手は流派によって競技ルールなどの違いがあり、その違いが文化の内の色合いとなっていますが、その色合いは空手の文化としての色彩にもなっています。
 我々の空手、空手の流派の一つである新極真空手は、世界 103 ヶ国に支部・道場が存在し、流派単独の会員数で 7 万人を擁します。
 我々の流派〝新極真空手〟は空手文化の中でも濃厚な文化的色彩を放ちますが、人は何かしらの文化に属したり、接することで人生の豊かさを得ることができます。

 私は元来、好奇心旺盛な性格ではなく、海外旅行などは好んで行きたいと思わない性質ですが、それでも新極真空手という文化に属することで大会参加、指導で何度かの新極真会の海外支部のある国への渡航を経験しました。
 私のような人間でも海外渡航の経験は、終生の忘れがたい良き思い出となりました。
 特に共産圏、イスラム圏の国への渡航は空手をしていなければ、個人的には絶対にしないような経験であり、自分の生まれ育った生活文化とは、異質の文化に触れたことは人生の深みになったような感慨を覚えました。

 文化は〝属するもの〟〝接するもの〟そして〝身に付けるもの〟と思いますが、文化を〝身に付けること〟は、その文化の本質を身に付けることであり、文化を通して得る人生の豊かさを、文化に属する、接する以上に、一層豊富にするものと思います。

 〝文化の本質を身に付ける〟文化の本質の一つは、前述のとおり文化の条件である〝普遍〟と思いますが、文化の本質を身に付けることの一つは、文化の普遍性を身に付けることだと個人的に思います。

 文化の条件である〝普遍〟は、第一義的には「地域的、空間的に広く行き渡ること」と思いますが、〝普遍〟は個人体にも照らし合わせることができ、個人の〝普遍〟を考えた時、その「広く行き渡ること」とは、個人の人生において「広く行き渡ること」になると思います。

 新極真徳島西南支部では、20 代から武道を始め 70 代の現在、稽古でのスパーリングを欠かさない道場生の方がいます。


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 私は空手の本質は、組手にあると思います。
 稽古としての組手であるスパーリングを 70 代になっても長年続けることは、空手の本質を文化の本質として〝人生の普遍〟とすることであり、空手という文化に単に属したり、接するだけでなく、空手の文化そのものを身に付けることになると思います。
 そしてそこから得る人生の豊かさは、健康だったり、後進からの尊敬だったりすると思います。

 また文化の〝普遍〟の「広く行き渡ること」は、個人の人生のみならず、本質を様々なスタイルに行き渡せることも値することだと思います。

 空手は人種、宗教といった様々なスタイルを持つ人々に行き渡り、それゆえ文化たる矜持を得ていますが、空手は空手文化の一つとして競技を有します。
 空手の競技はルールによって様々な競技スタイルが存在しますが、自身が稽古する空手の本質である組手で生成される個人の心・技・体を、1コの競技ルールのみの適応に止めることなく、空手のみならず他の格闘技の競技ルールにも適応させることも〝普遍〟に値するものと思います。


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 私は稽古として、新極真会の競技スタイルとは違うルール・スタイルのスパーリングにも取り組んでいます。
 その目的は単なる流行りを追った興味本意ではなく、組手の幅を広げるためであり、その幅の広がりは文化としての〝普遍〟を意図しています。
 そしてそこから得る人生の豊かさは、空手の本質である組手の〝面白さ〟を得ることだと個人的に思います。

 70 代の方を道場生の筆頭とする新極真会徳島西南支部、道場生には文化としての空手を、空手の本質に長く、幅広く取り組むことで、普遍的に稽古し、人生の豊かさを得て欲しいと思います。
 1.30.2024 記

スピード感が一等の価値となる現代社会のグローバリゼーションにおいて、長い年月、長い時間をかけて作り上げていく本質のススメ

 「クロワッサンがアメリカ中に急速に広まり、伝統的なドーナツに挑戦するまでになるのに、フランス人が大挙してアメリカに移民する必要はなく、ファーストフードのハンバーガーをヨーロッバのほとんどすべての中規模の都市にまで行き渡せるのに、多くのアメリカ人が移民する必要はない。」

 上記は今、読んでいる本の一文です。

 「グローバリゼーションが劇的に進行する現代社会を表現した一文」と紹介されていましたが、個人的に「なるほど」と思う、とても巧みな表現のように思います。
 〝グローバリゼーション(グローバル化)とは、地球規模で複数の資本、情報、人の交流や移動が行われる現象のこと。 また、自国と他国の関係性を表す「国際化」とは異なり、「グローバリゼーション」はヒト・モノ・カネの流動性が高まり、国境のない世界を意味する。〟と、インターネットで調べると出てきます。

 私の大学入試の 2 次試験は論文でしたが、論文を指導してくれた高校の先生が「これからはグローバルという言葉がもてはやされるから、論文でなるべく使え。」と指導されたため、グローバリゼーションの元になるグーロパルという言葉には昔から馴染みがあります。
 グーロパルという言葉がよく使われるようになったのは、私が高校生の頃、30 数年前からですが、近年の IT 化で、グローバリゼーション(グローバル化)は上記の如く、まさに劇的に進行しています。

 クロワッサンの急速な広まりのようにグローバリゼーションの劇的な進行は、新たな価値の急速な広がりとなり、それが多大な経済効果となることは、私のような者にでも容易に想像できます。

 グローバリゼーションにはビシネスチャンスとしての価値の一面があり、それゆえにもてはやされますが、その価値の一つは急速な広がりといったスピード感に思います。
 グローバリゼーションの現代社会においては、スピード感が重要な価値となる価値基準が組み上がっているようにも個人的に思います。

 ところで、クロワッサンもハンバーガーもパンの一種です。
 パンの起源をインターネットで調べると〝今から 8000 年~ 6000 年ほど前、古代メソポタミアでは、小麦粉を水でこね、焼いただけのものを食べていました。 これがパンの原型とされています。 その後、小麦栽培とパンづくりは古代エジプトへ伝わり、偶然によって発酵パンが誕生しました。〟と出てきます。

 ちなみにクロワッサンの起源を調べると〝クロワッサンは、フランス語で「三日月」という意味。 オーストリアウィーンの発祥。 1683 年ハプスブルク家の守備隊が、攻めてきたオスマントルコ軍を撃退した記念に、トルコの象徴である三日月をかたどって作ったといわれている。〟と出てきます。
 またハンバーガーの起源を調べると、 13 世紀の中央アジアに暮らしていた騎馬民族タタール人にその起源はあるそうです。

 クロワッサンもハンバーガーも、グローバリゼーションによってグローバルな食べ物となりましたが、その美味しさという本質がなければグローバル化はしなかったと思います。
 以前、テレビで古代エジプトで作られていたパンを再現して食べるという番組が放送されていましたが、番組のリポーターが実際に古代エジプトで作られていたパンを食べたところ、美味しくはなかったそうです。
 歴史的に、古代エジプトで作られていた美味しいとは言えないパンが、美味しいクロワッサンやハンバーガーに進化したという変遷が見て取れますが、その変遷には紀元前からの何千年もの時の流れがあります。

 クロワッサンやハンバーガーはグローバリゼーションによって急速に世界に広がりましたが、クロワッサンやハンバーガーのグローバル化に必須な〝美味しさ〟という本質が生み出されるには、長い年月が必要であったように思います。

 30 数年前からもてはやされてきたグローバルですが、グローバル化には世界の均質化という意味もあるそうで「世界の均質化によって世界各地の独自性が失われる」という危惧が最近では警鐘されています。
 世界各地の独自性の喪失は、グローバリゼーションのスピード感を一等の価値とすることによって、長い歴史によって世界各地で醸成される本質的価値の厚みが薄れることに要因の一つはあるように思います。
 世界各地の独自性は、その地域で長い年月をかけて作り上げられたものです。
 スピード感を信奉するだけでなく、クロワッサンやハンバーガーのような価値の本質が醸成されるには、長い年月が必要であったことをグローバリゼーションの時代だからこそ忘れてはならないと思います。

 グローバリゼーションの時代に忘れてはならない長い年月、長い時間が作り上げるグローバル化にかなう本質的価値を見据えることは、クロワッサンやハンバーガーのようなモノのみならず、人にも必要に思います。

 私は空手指導者ですが、道場を開設して 24 年になります。

 道場には 10 年来以上の道場生もいますが、空手を特に子ども達に指導していると、人の個々の本質を高めるには長い年月、長い時間が必要であることを痛切に感じます。
 小さい頃には想像しなかった成長を遂げる道場生もいますが、空手指導者として 24 年が経過した今の私の指導の信念には「人、特に子どもは時間をかけないと分からない」「拙速に人、子どもを判断するのは禁忌」といったことがあります。

 人の成長もスピード感、早熟が尊ばれがちです。
 時折、空手を辞めていく子ども達の中には「試合に勝てないから」といった理由が聞かれますが、その理由には空手を習い始めて、すぐに試合に勝てるようになるような「早熟を良し」とするスピード感への信奉を個人的に感じます。

 空手では「子どもの頃はなかなか勝てなかったけど、大人になってから勝てるようになった」との話もよく聞かれます。
 空手には長い年月、長い時間が必要である自身の指導の信念からぶれずに、その信念を通すことでグローバリゼーションの時代に適合する本質を持った人材育成の場に、新極真会徳島西南支部をしていきたいと思います。

 1.23.2024 記

「子どもに大人びた礼儀を強制しない」ことのススメ、子どもの心の働きを見据える

 空手道場で、最も大切なものは〝礼〟であるとされています。
 私も空手指導者として道場生、特に子ども達への礼儀指導には格別な留意をしています。

 その格別な留意の一つとして、私は子ども達への礼儀指導において「子どもに大人びた礼儀を強制しない」ように心掛けています。
 礼儀は〝儀〟の文字が示すように儀式のニュアンスがありますが、子どもに大人びた礼儀を強制すると、ただの礼の儀式となり〝礼〟の根本が失われるように個人的に思います。

 〝礼〟は儒教として礼を体系化した古代中国の孔子の時代から、その根本は秩序にあります。
 社会など人間関係に秩序をもたらすのが礼の根本ですが、秩序の必要性が生じる基盤は時代ともに変遷してきたように思います。

 朱子学は、江戸幕府に官学として保護された儒教の一派ですが、官学は、時の政府が正統と認め、統治の拠り所とした学問です。
 江戸幕府元和偃武のスローガンのもと、戦国時代の〝下克上〟とは対極的な朱子学の教えを官学として広めることで、戦争は失くなったことを人々に意識づけようとしましたが、この点おいて礼の根本である秩序の基盤は戦争にあったように思います。
 また同じく江戸幕府は、本来「国中のすべての人びと」といった意味合いの儒学的表現である〝士農工商〟を身分制度としましたが、これは当時は農業が産業の中で一番重要な位置にあり、それを担う農民に優越感を与える政策であり、この点おいては礼の根本である秩序の基盤は産業にあったように思います。

 礼の根本である秩序、その秩序の基盤を現代社会において考えるにパワハラ、セクハラなどハラスメントが大きな社会問題になっている現代、秩序の基盤の一つは〝人の心〟にあるように思います。
 秩序の基盤としての〝人の心〟においては、具他的にハラスメントの抑止力となる〝人への思いやり〟〝謙虚〟といった心が、礼としての〝人の心〟の基盤として重要であるように思います。

 ブログの筋を冒頭に戻しますが、子ども達の礼儀が無理に大人びると、子どもが大人を無理に繕うために子どもとしての心の伸びやかさが失われ、人への思いやりを失い、謙虚さが卑屈になるように思います。

 子どもは子どもらしい心を基盤とした〝礼〟のもとに、礼儀を身につけた方が良いと個人的に思います。
 そのための周囲の大人の役目としては、子どもらしい伸びやかな、子どもの心の働く環境を整えることが大切かと思います。
 子どもらしい心の働く環境、その環境の一つに空手道場の稽古は適していると個人的に思います。
 空手の稽古でも、特に我々の空手のような実際に突き蹴りを当てる組手、スパーリングは最適に思います。

 我々の空手の子ども達の組手、スパーリングでは子ども達の強さ、弱さが現実的に浮き彫りになりますが、強い子は勇ましく、弱い子は怯む様子で組手、スパーリングに取り組む姿勢が見て取れます。

 勇ましさ、怯みが見て取れる子ども達の姿勢は、子ども達の組手、スパーリングでの心の働きが体に現れたものです。
 実際に突き蹴りを当てられると当然痛く、我々の空手の組手、スパーリングで子どもが怯むのは当たり前のことで、特に怯みの姿勢には子どもの心の働きがよく反映されているように私は思います。

 我々の空手の組手、スパーリングは対極的な勇ましさ、怯みの心の働きが交錯しますが、その交錯する対極的な心の働き中で人の心、礼の根本としての基盤は醸成されるように思います。

 勇ましく組手、スパーリングする子は、組手、スパーリングに怯む子に手加減を覚えることで〝人への思いやり〟の心が芽生えると思います。
 また組手、スパーリングに怯む子は自分の弱さを素直に認め、自分の弱さを克服しようとする気持ちを持つことで〝謙虚〟な心が芽生えると思います。
 組手、スパーリングにおける子どもの心の働きを見据え、どのような働きであれ、その働きを受け止め空手の稽古としての組手、スパーリングに向き合わせることが、空手の指導者として大切かと思います。
 そして、それは礼儀指導の根幹にもなると思います。

 空手指導者として、子ども達の心の働きを見据える目を凝らしていきたいと思います。

 < ご案内・道場生対象 >
 神武會舘さん主催の第 2 回全四国空手道選手権大会・神武杯 < 第 11 回徳島県空手道交流大会・同開催 > が下記のとおり開催されます。
 今大会より、型競技も開催されるようです。
 参加希望の道場生は指導員まで申出てください。
 とき…3/24 ㈰ 
 場所…徳島市勤労者体育館 ( 〒770-8001 徳島県徳島市津田海岸町 8-29)
 支部内締切…1/27 ㈯

 < ご連絡・道場生対象 >
 今週の土曜日 (1/20) の鴨島道場の稽古は一般部、居残り稽古はお休み、少年部クラス、選手クラスは以下の通り時間変更です。
 少年部クラス…15 時~16 時 15 分
 選手クラス…16 時 30 分~18 時
 道場生、保護者の皆様、よろしくお願いいたします。

 1.16.2024 記

〝常在戦場〟のススメ、想像する力を働かせる心構え

 本日の火曜日 (1/9) より、私が指導するクラスは本格始動、このブログをご覧いただいてる皆さん、本年もよろしくお願い致します。

 1/2 ㈫は恒例の新春スパーリングを開催。
 今年も新極真会徳島北東あわじ支部出身で、現在、新極真会世田谷・杉並支部で活躍する神原詠二選手も帰省の折で参加してくれました。

 新年からハードで良い稽古が出来ましたが、稽古に参加された皆さん、付添いの保護者の皆様もお疲れ様でした。

 また 1/5 ㈮には、支部内強化稽古を実施。

 2 クラスに別れてこちらもハードな稽古を行いましたが、参加した道場生の皆さん、お疲れ様でした。

 さて新春スパーリング、支部内強化稽古と実践的でハードな稽古を、新年の浮かれた気分の時期に盛り込むには、私なりの意図があります。
 それは〝常在戦場〟の心持ちを示すためです。

 〝常在戦場〟は旧長岡藩の家訓であり、長岡出身の連合艦隊司令長官山本五十六大将の座右の銘としてよく知られる言葉です。
 意味はおおむね「常に戦場にいるような心持ちでいること」ですが、昨年の全中国大会では、大会を主催された広島支部支部長・大濱師範が大会のテーマとされて、同大会の記念 T シャツにもプリントされていました。
 昨年の全中国大会では、大会の総括として「我々、武道を志すものは〝常在戦場〟を忘れずに、鍛錬を怠ってはならない。」といったことを大濱師範がお話され、私も感銘を受けました。

 〝常在戦場〟とは一見、軍国主義めかしく聞こえる言葉ですが、戦場とは本来が非日常的な場であり、〝常在戦場〟は総じての思わぬ非日常的な出来事に備える心構え説く言葉になります。

 思わぬ非日常的な事に備える心構えとは、それを辿ると〝思わぬ非日常的な事が、いつ起きるかもしれない〟という想像力を働かせることにもなります。
 日本は古来より自然災害が多かったため、日本人はそれまでの生活が一変するような非日常的な事が起こることを意識し、起きる事への想像力を働かせてきたと言われています。
 その想像力に、情操が加わって〝諸行無常〟のような日本人特有の〝もののあわれ〟という情緒を生んだと言われますが、非日常的な事への想像力に、それに屈しない不屈の精神が加わって、心構えとしての〝常在戦場〟は派生したように個人的に思います。

 非日常的な事への想像力は、私がブログでよく書く〝見る力〟〝聞く力〟などの認知能力の一つである〝想像する力〟です。

 日本は特有の自然環境によって、そこに住む日本人の認知能力を高めてきたように個人的に思います。
 現代、認知能力は子ども達の学習能力の根幹とされています。
 また学習面のみならず、重大な犯罪を犯す子どもたちは認知能力が一般的に低いとされており、認知能力は子ども達の発育全般にかかわる重要な能力とされいます。

 現代社会はインターネットの普及により、子ども達の認知能力、特に〝想像する力〟の向上が阻害されていると思います。

 インターネットは〝想像空間〟などと言われますが、現在、インターネット上では嘘や中傷・誹謗が蔓延しています。
 SNS など会ったこともない人と友達になるインターネットの想像空間は、〝実態の無いまたは見えにくい想像空間〟であり、そこに浸るものは〝嘘〟を想像と混同し、中傷・誹謗で自己満足を想像しているように個人的に思います。
 SNS で横行している嘘や安易な書き込みで人を騙し、傷つけることなどは、「自分の書き込みを人がどう思うか」などの想像力の欠如に思います。
 実態の無い、見えにくいインターネットの想像空間にのめり込むと、個人的に認知能力〝想像する力〟は乏しくなっていくように思います。

 現代社会にあってはインターネットの想像空間に踊らされない、実態を感じ、想像する〝常在戦場〟のような心構えを持つ事が非常に大切に思います。

 1/1 ㈪には北陸で大きな地震が発生し、たくさんの方が亡くなりました。
 また、その関連事故ともいえる航空事故も起こりました。
 自然災害、重大事故など、実態としての非日常的な出来事は、いつ起きるか分かりません。
 古来より日本人が培ってきた認知能力としての想像力を、失ってはならないと思います。

 〝常在戦場〟の心構えは非日常を想像する力が根本ですが、その力を養うには非日常を常に短かに感じることが一つの手段に思います。
 北陸地震のテレビニュースで被災された方が「水も電気も断たれた、今の生活は過酷です。」とインタビューで応えていました。
 その過酷な生活を想像すると、身につまされる思いがします。
 非日常的な事は、過酷です。
 しかし過酷なことに、心身を損なわない程度に身を晒すことによって、非日常を常に短かに感じることが出来るようなると私は思います。

 通常、人にパンチ、キックをしたりすることは非日常的な行為です。
 空手、特に実際に組手で突き蹴りを当てる我々の空手は、過酷な非日常的な行為を礼に正して稽古する心身を高める武道です。
 我々の空手は、非日常を短かに感じることのできる最良の手段であると思います。
 今年も実質、新春スパーリングで幕を開けた新極真会徳島西南支部の稽古、今年は道場生の〝常在戦場〟を心構えの一層高めて行きたいと思います。
1.9.2024 記