空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

自らの使命を感じるススメ、徳川家康の遺訓にみる武道の本質的な精神性

 昨日の火曜日 (3/21・祝日 ) は京都市にて関西錬成大会でした。

 主催された村山師範、京都南支部のスタッフの皆様、素晴らしい大会をありがとうございました。

 また道場生が参加させていただきありがとうございました。
 新極真会徳島西南支部からはトキ君が出場。

 結果は一回戦敗退。
 スタートラインには立ったばかり、スタートラインからの道に〝自分の使命〟を感じて、これからの一戦、一戦を身体に刻み、少しずつ強くなって欲しいと思います。
 保護者様もお疲れ様でした。

 さて先日、とあることからスポーツの由来をインターネットで簡単に調べてみました。
 調べてみると「「sports スポーツ」の語源はラテン語の「deportare デポルターレ」にさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」が転じて「憂いを持ち去る」という意味、あるいは portare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という意味の語である。これが古フランス語の「desporter」「(仕事や義務でない)気晴らしをする、楽しむ」となり、英語の「sport」になったと考えられている。」とあります。

 私は常々、スポーツと武道は違うものと思っています。
 スポーツと武道の違いで書きたいこともありますが、それは機会を改めたいと思います。

 スポーツと武道の違い、その違いは両者の精神性の違いにあると思います。
 スポーツの本質的な精神性は〝楽しむこと〟だと思います。
 それに対し武道の本質的な精神性は、スポーツに対義的なニュアンスのある〝すべきこと〟だと思います。

 武道の本質が〝すべきこと〟と思う由来は、しつこくブログで書いているように武道は武士道であると思う私見にあります。

 武士道は武士の精神的美意識であることから、武道の本質的な〝すべきこと〟は、上記のスポーツの由来にある「仕事や義務でない、気晴らし」とは真逆の仕事的、義務的であることから生じていると思います。

 歴史的に代表的な武士と問われれば、徳川家康が挙げられると思います。
 徳川家康は今年の大河ドラマの主人公にもなり、武家の棟梁とされる征夷大将軍になった正しく歴史的に代表的な武士です。
 その徳川家康の遺訓に下記のものがあります。

 〝人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
  不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
  堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
  勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
  おのれを責めて人をせむるな。
  及ばざるは過ぎたるよりまされり。〟

 本当に言ったかどうか定かではないとされていますが、大河ドラマを見ている人はこれからのドラマの展開で、上の言葉が徳川家康の人生が描写されたものであり、遺訓に妥当するものと感じると思います。

 スポーツの由来には冒頭に表記したように「荷を担わない」とあります。

 徳川家康の遺訓の冒頭には〝重荷〟がありますが、代表的な武士の遺訓に〝重荷〟があるのはスポーツと武士道の違いを鮮明にしていると私は思います。
 私はが思う、武道の本質的な精神性である〝すべきこと〟は、時として〝重荷〟であるかもしれません。

 しかし〝重荷〟は、自ら背負うことで〝自らの使命〟になると思います。
 そして〝自らの使命〟は〝責任感〟という、社会人としての大切な資質になると思います。
 社会人の資質を身につけることが、武道を学ぶ上での一番大切な意義と思います。
 新極真会徳島西南支部の道場生には、試合を通し、稽古を通し、武道の本質的な精神性から、武道を学ぶ意義を全うして欲しいと思います。

 < ご案内 >
 新極真会北東あわじ支部さんとの合同稽古を下記の通り開催致します。
 都合の良い道場生の皆さんは、ぜひご参加ください。
 3/26 ㈰…徳島県立中央武道館・剣道場にて 10 時~12 時 < 道着着用 >
 4/2 ㈰…鴨島東中学校にて 10 時 15 分~12 時 15 分 < 道着着用・先に案内している昇級審査会での支部内強化稽古を変更 >
 4/7 ㈮…徳島県立中央武道館・柔道場にて 18 時 45 分~20 時 45 分 < 道着着用 >
 3.22.2023 記

正しい身体の使い方のススメ、〝ありふれた〟ことにある正しい身体の使い方

 少年部クラスでよく行っているフィジカルトレーニングの手押し車。
 手押し車を行うものの要点としては、足の持ち手になるべく負荷をかけないことを指導しています。

 手押し車を行うものが前に進む時、体を揺らして進んだり、腹をマットにつくのように下げたりすると持ち手の負荷は高まります。
 体を揺らさないように、腹を下げないように進むためには体幹に力を入れることが必要となりますが、体幹に力を入れて体幹を強化することこそ手押し車の最大トレーニングポイントとなりります。

 トレーニングには何事でも、そのトレーニング効果を最大限引き出す〝正しい身体の使い方〟がありますが、手押し車では〝正しく身体を使う〟ことで持ち手の負荷を軽減させます。
 トレーニング効果を最大限に引き出したりするための〝正しい身体の使い方〟ですが、総じて〝正しく身体を使う〟ことは身体の状況を様々に変化させ、実際の体重は変わらないのに手押し車のような〝自分の身体を軽く使う〟ことが出来たりします。

 50 歳、メタボ、体重 3 ケタの私、リーチ差のある道場生相手のスパーリングですが、スパーリングにおける私の動きは、手前味噌ながら軽やかな自負が密かにあります。


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 スパーリングでしっかり動けるようにフィジカルトレーニングは欠かさないようにしていますが、体重 3 ケタの重い体の動きを筋力だけでカバーしている訳ではありません。
 また近年は加齢により、筋力で体重をカバーしきれない場面が増えており、その負担が膝や腰の痛みに出てきています。

 なのに、なぜスパーリングで軽快に動けるのか ?

 それは、私が自分の 3 ケタの体重を軽く使えているからだと思います。

 〝身体を軽く使う〟ことには極意があります。
 極意と書くと仰々しく思われますが、実際は大して大げさなものではありません。
 〝腰の高さを変えないように動く〟〝バタバタ足音させないように動く〟など、極意は空手の稽古で指導されるありふれた要点を、長年稽古すれば身につくものです。

 空手の稽古では〝蹴った足を接地させる際に足音をさせない〟といったことも、ありふれた要点として指導されます。
 この要点も〝身体を軽く使う〟極意となりますが、蹴り足を足音させずに接地させるためには、足裏のつま先から踵を順番に接地させる足捌きが必要となります。
 この足捌きは、接地の際に蹴った足にかかる重心の集約作用となります。

 蹴り足を接地させる際にドタったと足音のするような動き、またはバタバタとするような体全体の動きは重心が集約されておらず、動くたびに体のあちらこちらに重心が分散し、分散した重心は軽快でスムーズな動きを妨げる体の重みとなります。
 それに対し集約された重心は体の一点もしくは数点に動きにおける重心移動が集約され、その集約された点を動きの軸とすることができれば、重い体も軽く使うことができるもので、重心の集約作用が〝身体を軽く使う〟極意となります。

 空手の極意は、長年のありふれた空手の稽古の要点で身につくものです。
 また、ありふれた空手の稽古の要点は〝正しく身体を使う〟ことでもあり、〝正しく身体を使う〟ことは身体のあらゆる可能性を広げるものです。

 さて話は変わりますが、先週末、週の最後のクラス指導を終えた後、ある道場生が今春からの新生活の報告にご家族ともども来てくれました。
 その際、気の利いたはなむけの言葉も言えず、また一つ誤ったことを話してしまいましたが、その訂正をこのブログで語り口調に綴りたいと思います。

 先生 ( 私 ) は「50 歳まであっという間だった」と言ってしまいましたが、それは誤りです。
 やはり生まれて 50 年は長く、人の人生は長いものです。
 人の人生の長さは、そのまま人の可能性の大きさです。
 長い人生ほど、人の可能性は大きいものです。

 先生は空手を本格的に始めて 30 年数年、長い年月の稽古の中でありふれた空手の稽古の要点である〝正しく身体を使う〟ことを続けてきました。
 そのおかげで体重 3 ケタ、メタボの 50 歳になった今でも、道場生とスパーリングが出来るという可能性を手にしました。

 人の幸せに対する価値感は様々で、他人にとってはしょうもないことかもしれませんが、先生にとっては道場生とスパーリングが出来ることがこのうえない幸せです。

 身体を正しく使い、長い人生を歩んで行けば他人の価値観、世間の価値観とは合わずとも、おのずと自分だけの幸せが見えてくるように思います。
 正しい身体の使い方は、空手のありふれた稽古の要点のように、具体的な身体の使い方だけではありません。
 仕事、勉強、スポーツなど社会的に真っ当な自分が打ち込めることに一生懸命になること、また打ち込めることが見つからなくても、今、自分がやるべきことに一生懸命になるといった、それら〝ありふれた〟ことに、自分の生き方を正しくする〝正しい身体の使い方〟があると思います。

 道場生の皆さんには、正しく身体を使って欲しいと思います。
 皆さんの身体はお父さん、お母さんに産んでもらい、育て来てもらいました。

 親孝行の仕方はたくさんあると思いますが、一番の親孝行は〝正しく自分の身体を使う〟ことだと先生は思います。
 道場生の皆さん、正しく自分の身体を使って、長い人生を歩んでください。

 なとど、格好つけたことをブログで書いていますが、私自身、空手では正しく身体を使えていますが、これまでの人生では正しい身体の使い方をしてきませんでした。
 体重 3 ケタはやはり、正しい身体の使い方ではないかと…。
 そして、体重 3 ケタは人間として間違っているかと…。
 体重 2 ケタの正しい身体の使い方が出来るようになるためには、今、自分は何をすべきか ?
 今日は金曜日、ルーティンの青柳さんのパワーランチで糖質を摂取し、頭の働きを良くして考えたいと思います。

 < ご案内 >
 今週より、新極真会徳島西南支部ではマスク着用を道場生、見学の方も含めて個人の判断に委ねています。
 私、逢坂も個人の判断としてマスクは外して指導しています。
 関係者の皆様には、ご理解のほどをよろしくお願い致します。

 3/21 ㈫の徳島市加茂道場は祝日のためお休みです。
 関係者の皆様、よろしくお願い致します。

 新極真会北東あわじ支部さんとの合同稽古を下記の通り開催致します。
 都合の良い道場生の皆さんは、ぜひご参加ください。
 3/26 ㈰…徳島県立中央武道館・剣道場にて 10 時~12 時 < 道着着用 >
 4/2 ㈰…鴨島東中学校にて 10 時 15 分~12 時 15 分 < 道着着用・先に案内している昇級審査会での支部内強化稽古を変更 >
 4/7 ㈮…徳島県立中央武道館・柔道場にて 18 時 45 分~20 時 45 分 < 道着着用 >

 3.17.2023 記

認知能力と非認知能力を高めることのススメ、認知能力と非認知能力のリンク

 今、読んでいる本によると非行少年の特徴は以下の「5 点セット+1」にまとめることができるそうです。

 1. 認知機能の弱さ…見たり、聞いたり、想像したりする力が弱い。
 2. 感情統制の弱さ…感情をコントロールするのが苦手であり、すぐにキレる。
 3. 融通の利かなさ…何でも思いつきでやってしまい、予想外のことに弱い。
 4. 不適切な自己評価…自分の問題点が分からず、自信がありすぎたり、なさすぎたりする。
 5. 対人スキルの乏しさ…人のコミュニケーションが苦手。
 +1. 身体的不器用さ…力加減がでぎず、身体の使い方が不器用 ( スポーツなどを経験そしている子どもの場合は当てはまらないことも多いので+1 とする )

 この特徴で最も留意すべきは〝1. の認知機能の弱さ〟であり、認知機能の弱さは勉強の遅れとなり、勉強についていけなくなった子どもは「学校は面白くない」と感じるようになって学校に行かなくなり、学校に行かないことが他の非行少年の特徴を誘発するそうですが、その一例が下記のようにあるそうです。

 勉強について行けなくなり、学校がおもしろくなくなって、学校に行かなくなる
  ↓
 他人とコミュニケーションをとることを避けたりするようになる
  ↓
 他人とのコミュニケーションが不足すると感情統制を行う力、融通を利かせる力、対人スキル育つ機会が失われる
  ↓
 対人スキルが失われると自己評価も歪んだものになる

 少年非行を防ぐには上記のような負の連鎖とならないように、まずは子どもの認知機能を高め、勉強の遅れによって学校に行かなくなることを防ぐことが大切であるとのことです。
 私も「なるほど」と共感を覚える少年非行への見解ですが、この非行少年の特徴「5 点セット+1」、確かに非行少年に顕著に見られる特徴であっても、軽度な特徴は大半の人にあるのではないかと思ったりします。
 私などは人見知りの性格ゆえに〝5. 対人スキルの乏しさ〟などは、そのまま当てはまります。
 〝1. 認知機能の弱さ〟についても、今でも数字を把握するのが苦手であったり、本を読んでも一度で内容を理解できずに読み返したり、軽微にその徴候があるように思い、思春期は劣等感のどん底にあったことから〝4. 不適切な自己評価〟にも当てはまるように思います。
 私は小・中・高と非行と言われれたことはありませんが、私が非行に至らなかったのは、どうにか学校の勉強についていけて、学校に行っていたからのように思います。

 子どもが非行に走らない社会が望ましいのは、言うまでもありません。

 少年非行は子どもの生活環境が、発生原因の大半と言われています。
 窃盗などの少年非行の原因は貧困な生活環境にあったりするそうですが、子どもの大半が少年非行の特徴を大なり小なり持ち合わせており、それが少年非行を誘発させるような生活環境と重なった時に、少年非行が発生する一面があるのではないかと個人的に思います。
 健全に子ども達が成長していく社会であるために、大人達は子どもの生活環境を整備することが大切に思いますが、上記の本を書かれた筆者が提唱するように子どもが学校に行くことは、子どもの生活環境整備の基盤であると思います。

 〝学校に行く〟子どもの生活環境の基盤において重要なのが、上記に書かれているとおり、学校の勉強について行くための子どもの認知能力です。
 学習のための認知能力ではありますが、認知能力の向上は〝学ぶ〟という概念でなく〝トレーニング〟という概念が用いられます。
 〝学ぶ〟と〝トレーニング〟の概念の違い、私は〝学ぶ〟は脳が主体となること、〝トレーニング〟は身体が主体となることと解釈しています。

 認知能力は「見たり、聞いたり、想像したりする力」 と上記にもありますが、身体の五感が元となる能力です。
 学習のための認知能力では〝見る力〟〝聞く力〟、五感のうちの視覚、聴覚が一般的には主流となると思います。
 学習のための認知能力においては他の五感、味覚・嗅覚・触覚などは少し軽視されがちに思いますが、しかしそれらも作動させることで、認知能力はトータル的に高まるものと思います。

 空手は視覚・聴覚で技を学び、そしてさらには技の実践 ( 組手・スパーリング ) による触覚をもって認知能力を高める作用があると思います。
 世間では様々な認知能力トレーニングがありますが、それらの中でも空手は優れた認知能力トレーニングであるように個人的に思います。

 それは技の実践、触覚を用いて認知能力を高めるためですが、「相手の突きをもらったら痛い」と認知する能力は「他の人が突きをもらったらどう思うだろう」といった想像力をもたらすものです。
 認知能力を改めて調べてみると「認知能力とは、テストで数値化して評価できる能力のことです。 記憶力、思考力、計算力、言語力、IQ(知能指数)も認知能力に当たります。」とあります。
 さらに「一方、非認知能力は認知能力以外の能力全般のことで、思いやりや自信、協調性などの数値化できない心の部分を指します。」と、認知能力と対となる非認知能力についてもインターネットで見当たります。
 非認知能力は、認知能力主体のいわゆる詰め込み教育の見直しの一環として、最近の子ども教育で注目されています。

 私は認知能力と非認知能力は別個のものでなく、上記の空手における一例のように「突きをもらったら痛い」という認知が「他人が突きをもらったらどう思うだろう」という想像を生み、その想像力が「スパーリングで自分より弱い子には強く打たないでおこう」といった思いやりになるようにリンクするものと思います。
 認知能力と非認知能力はリンク度を高めることで、双方を高次化させるものと思います。
 空手は認知能力と非認知能力のリンク度を高める可能性を、大いに有する稽古体系を有します。
 空手指導者として、認知能力と非認知能力のリンクをクローズアップさせる指導スキルを研究していきたいと思います。
 3.14.2023 記

武道感覚のススメ、セコンドの礼に思うこと

 我々の空手の組手試合では、セコンドと呼ばれる大会を通して選手のサポートをする役割があります。
 セコンドは選手の競技中は、舞台またはマットのすぐ近くで試合へのアドバイス、声援を送りますが、このセコンドをされる方で選手と一緒に競技の開始と終了の礼を行う方がいます。

 我々の新極真会にはほとんど見られず、諸流派の方々に多く見られますが、私は個人的にセコンドの礼に関しては違和感を覚えます。
 また新極真会の組織の総意としても、同様に違和感から、セコンドの競技での礼は不要としています。
 セコンドが礼をする姿を「礼儀正しい」と見る向きもあるようですが、なぜ我々は違和感を感じるのか ?
 今回のブログは、セコンドの礼に対する違和感への私見を書いてみたいと思います。

 そもそも空手の組手試合は一対一の競技です。
 空手の組手試合は選手二人が、心技体の攻防を織り成す空間であり時間です。
 それは選手二人の〝間〟と言えるものであり、選手二人だけの占有の〝間〟とも言えるものと思います。

 選手は試合において自身の心技体、総じて魂の昇華をかけて死力を尽くすものですが、試合は選手の魂が交錯する崇高な〝間〟であるがゆえに、礼を持って始め、礼を持って終わらせるものと個人的に思います。
 試合における始まりと終わりの礼は、選手二人だけの〝間〟の始まりと終わりと言えるものと思いますが、セコンドが礼を示すことは選手二人の〝間〟に割り込むようなことだと思います。
 私がセコンドの礼に違和感を感じるのは、セコンドの礼に選手の〝間〟への割り込みを感じるからです。
 試合における選手だけが織り成す〝間〟、選手の技と体は視覚で捉えることができますが、選手の心をまとった技と体 < 心技体 > である魂は感覚で捉えるものです。
 試合の〝間〟から選手の魂を捉える感覚、この感覚は武道の感覚と言えると思います。

 〝一生懸命〟という言葉があります。
 試合で魂の昇華をかけて死力を尽くす選手の姿はまさに〝一生懸命〟であり、その言葉の説明は今更不要に思います。
 〝一懸命〟は由来、〝一懸命〟とも表記されてきました。
 〝一懸命〟とは、武士主体の社会だった中世日本において、武士が与えられた領地を命がけで守るという意味から起こった言葉です。
 そして領地の俸禄で生計を営むことから、転じて、広く必死になって力を尽くすことを示すようになったとされています。
 〝一懸命〟は〝一懸命〟が転じたものです。

 私はしつこくブログで書くように武道とは武士道と思っています。
 武士道は武士の精神の美意識ですが、〝一懸命〟転じて〝一懸命〟は武士道に由来する武道精神と言えるものと思います。

 武士道の〝一懸命〟における〝一〟は領地を意味します。
 武道においては領地といったものは存在しませんが、私は武道においても〝一〟は存在すると思います。
 武道における〝一〟とは、その一つに試合における選手同士が織り成す〝間〟であると思います。
 武士が〝一〟によって生計を営んだように、武道における〝一〟である試合の〝間〟では、選手は魂を昇華させるものであり、武道の〝一〟は〝魂の領地〟と言えるものと思います。

 試合における〝魂の領地〟は試合を重ねることで増えるものであり、武士が領地を増やすことで生計が豊かになったように、試合における〝魂の領地〟の増加は選手の魂、選手の心技体を豊かにさせるものと思います。
 試合の〝間〟が〝魂の領地〟があるゆえに、余計にそこへの他人の割り込みは厳禁に思いますが、試合を選手二人の〝魂の領地〟と感じるか否かは、武道精神への理解を含む〝武道感覚〟といったものの有る無しに関わってくると思います。
 〝武道感覚〟の有無、またその濃淡度は、試合のような武道の実践経験がなければ身につかず、また深くならないものと思います。

 私は、新極真会は武道感覚の色合いの深い空手流派であるとの自負があります。
 その自負の理由の一つは新極真会は多くの試合を経験した武道実践者によって構成されている組織であり、武道実践者の武道感覚が組織運営に反映されているからです。
 セコンドの礼を不要する組織姿勢は、選手の試合の〝間〟を尊重する武道感覚によるものです。
 セコンドの礼を不要とする新極真会であり、その末端の私ですが、セコンドの礼は広く空手界においては一概に不要とすべきものではないとも思っています。
 セコンドの礼を「礼儀正しさ」とする見解にも、それなりの理由はあると思います。

 空手には無数の流派がありますが、その流派の色分けは武道をうたう空手であるならば〝武道感覚〟で別れてくると思います。
 新極真会の〝武道感覚〟は、選手の試合の〝間〟を尊重するような〝武道実践者としての感覚〟です。
 私は新極真会の〝武道感覚〟を矜持に思いますが、組織の末端の指導者として、その矜持を胸に道場生を指導していきたいと思います。
 3.10.2023 記

舞台に立つことのススメ、長渕剛さんの〝乾杯〟より

 先の日曜日 (3/5) 東京都、武蔵野の森総合スポーツプラザで第 2 回全日本青少年フルコンタクト空手道選手権大会が開催されました。
 同大会に私は審判参加、そして新極真会徳島西南支部からタイシン君、ルキ君、リコちゃん、タイセイ君が出場。

 空手の全日本大会はたくさんありますが、同大会は幼年から高校生までのカテゴリーでは国内最高峰の一角と言って良い大会です。
 そのレベル高さに揉まれ、出場した皆んな入賞には至りませんでしたが、最高峰の舞台に立ち、そこで見た風景は緊張でおぼろげであるかもしれませんが、記憶に焼き付けて欲しいと思います。

 優勝した選手、準優勝した選手に敗退した道場生もいましたが、私が審判業務の合間に皆んなの舞台の外で見た、皆んなの戦っている風景は現段階では相手選手が 1 枚も、2 枚もうわてであっても「いずれ追いつき、追い越せないことはない」と感じさせるものでした。
 いずれ追いつき、追い越すために、私は段階を経た導き方を示して行きたいと思いますが、皆んなにも自身が最高峰の舞台で見た風景に、今後の自分の飛躍を想像して重ね、また今週の稽古から頑張って欲しいと思います。

 タイシン君、ルキ君、リコちゃん、タイセイ君、皆んなよく頑張りました。

 皆んな、これから強くなれる !!
 今日の稽古から、また頑張って行きましょう !!
 保護者の皆様もサポート、お疲れ様でした。

 さて話は変わりますが、先月、第 7 回全世界ウエイト制空手道選手権大会の日本代表選手、また数々の全日本大会で活躍している福岡支部の緑武士選手、第 12 回全世界空手道選手権大会の女子チャンピオンである同じく福岡支部の南原朱里選手の結婚披露宴に参席してきました。
 両選手の結婚披露宴は参席者が 700 名と、恐らく私の生涯でも二度とあのような豪華絢爛な結婚披露宴に参席することはないと思います。
 今発売されている新極真会の機関紙空手ライフでも記事になっていますが、豪華絢爛である結構披露宴の何よりの象徴はそのゲストの多彩ぶりでした。

 豪華絢爛なゲストの極め付けは、何と言っても歌手の長渕剛さんの参席でした。
 長渕さんはお祝いのスピーチと歌をはなむけに新郎新婦に贈られましたが、歌われた曲は〝乾杯〟でした。
 〝乾杯〟には「キャンドルライトの中の二人を 今こうして 目を細めてる」という歌詞がありますが、このフレーズを熱唱された時など、私は感動で鳥肌が立ちました。
 以来、最近では長渕剛さんの〝乾杯〟をヘビーローテーションで聞いています。


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 〝乾杯〟は 1980 年のアルバムでリリースされた古い曲ですが、1988 年にシングルで再リリースされ大ヒットしました。
 〝乾杯〟は結婚式を情景とした曲ですが、人生の大きな節目に置かれた人間に対する応援歌であることから卒業式にも好まれます。

 〝乾杯〟の再リリースの年、1988 年は私の中学卒業の年です。
 私の中学卒業当時、よくテレビやラジオで長渕剛さんの〝乾杯〟が流れていましたが、〝乾杯〟は私の最も思い出深い曲の一つとなっています。

 〝乾杯〟が卒業式の情景を思い起こさせるのはサビである「乾杯 ! 今君は人生の 大きな 大きな 舞台に立ち 遥か長い道のりを歩き始めた君に幸せあれ !」のフレーズにあると思います。
 今はまさに卒業シーズン、ヘビーローテーションで聞いている〝乾杯〟が、その都度胸に響きます。

 「体重 3 ケタを早く卒業したい」思う私ですが、なかなか卒業に至らず、自身の卒業には縁がありませんが、しかし道場生の小・中・高の卒業が身近な情景としてあり、卒業の感慨を毎年よく感じています。
 卒業とは〝乾杯〟にあるように「人生の 大きな 大きな 舞台に立つ」ことだと思います。
 卒業して人生の大きな舞台に立ち、その舞台から連なる人生の遥かな長い道のりを歩くことで、自分の幸せは見えてくるのだと思います。
 逆に学校を卒業しても、大きな人生の舞台に立たねば、自分の幸せは見えてこないと思います。

 道場生には〝自分の人生の舞台に立つ力〟を空手で身につけて欲しいと思います。
 人生の舞台に立つ力は、勇気、根気、迷いを振り切る決断力など、空手の根幹とも言える空手の稽古で養う力です。

 人生の舞台は様々です。

 空手の舞台においては先の日曜日に 4 人の道場生が立った全日本の最高峰の舞台から、錬成大会のような身近な舞台、また大会だけでなく審査、または日々の稽古も人生の舞台と言えるものと思います。
 人生の舞台は様々と書きましたが、様々なのは人それぞれにとって様々であり、また一個の人間にとっても様々な舞台が折り重なってきます。

 空手においては日々の稽古から始まり、審査、錬成大会、全日本大会などの舞台がスケールアップで折り重なり、その舞台に立つごとに舞台に立つ力は養われ、その力が幸せへと向かう人生の大きな舞台へと自分を押し上げ、その舞台から伸びる道のりでの、しっかりとした歩みになるのだと思います。

 今春、卒業を迎える道場生は 4 月より新たな舞台に立ちます。
 大半の道場生がこれから様々な舞台に立っていくと思いますが、どの舞台においてもしっかりと立ち、舞台から伸びる道のりを歩む力を空手で培って欲しいと思います。
 今春、卒業を迎える道場生の皆んな、おめでとう !!

 ところで道場生の卒業に感慨を覚えるばかりの私ですが、幸せに向けた自身の卒業にも歩んで行きたいと思います。
 体重 2 ケタへの舞台には、その登壇の距離の長さに悪戦苦闘していますが、毎週金曜日のルーティンである青柳さんのパワーランチで炭水化物を減らす、勇気、根気、迷いを振り切る決断力を付けて頑張りたいと思います。

 3.8.2023 記

共感力のススメ、自分の幸せを感じる調和の共感力

 今読んでいる本に「成熟した大人とは、共感する力のある人」という一文がありました。
 また
 〝人間関係に関わる様々な実体験を経て、人は「自分がこういうことをすれば、相手はこんなふうに感じる」ということを五感を通じて学習します。
 その過程で想像力が育まれれば、初めてのことや困難に直面したときも、想像力を働かせて解決しようとする姿勢が身につくでしょう。
 また言ってはいけないこと、やってはいけないことを経験的に理解し、人を傷つけるような行動に歯止めをかけることもできるようになる。
 そんな風に想像力が身につけば、おそらく子どものころに「共感する力」のようなものが芽生えるはずです。
 相手には相手の考えがある、相手のルールがあるということを理屈でなく感じ取れる力は、人を幸せにしてくれます。〟
 との一節もありました。

 上記の一文、一節は個人的に非常に興味深く感じます。

 共感という言葉を改めて調べてみると「他人の考え、主張、感情を、自分もその通りだと感じること」とあります。
 しかし上記の一文、一節での〝共感〟は「自分もその通りだと」と相手の考えに従属することでなく、相手と自分の考えが違っていても「他人の考え、主張、感情を感る」ことで、相手の考えを許容することであるように思います。
 かいつまめば、ここでいう〝共感力〟とは「他人を感じること」であるように思います。

 空手は対人の技であるがため、「相手を感じる」共感力が必須なものです。
 例えば自分の突きを当てるのであれば、受けにくい相手のタイミングなどで突かねばならず、蹴りをディフェンスするには、相手の蹴りの距離などに応じて受けるか、躱さなければなりません。

 空手においては、相手のタイミングや距離などを感じ取る共感力は、空手の技量のそのものであるように思います。

 空手において、その共感力が最大限に必要な技はカウンター、武術用語でいう〝先 ( せん )〟であると個人的に思います。
 カウンター、先は相手の間合い ( タイミングと距離 ) に合わせて技を出しますが、それを成功させるには相手の間合いを感じる〝共感力〟を必要とします。


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 カウンター、先は私の得意技であり、私の教える空手の特質でもあります。
 道場生にはカウンター、先を伝えて行きたいと思いますが、ただ単にカウンターの打ち方などを教えるだけでは不十分であり、上記の一文、一節から道場生の共感力を高める必要性があるように改めて思います。

 どのようにして、道場生の共感力を高めるか ?

 それには特段の工夫は要らないように思います。
 上記の一節は「想像力が共感力を養う」とも要約できると思います。
 「自分がこういうことをすれば、相手はこんなふうに感じる」
 「言ってはいけないこと、やってはいけないことを経験的に理解し、人を傷つけるような行動に歯止めをかける」
 といった想像力は、空手の稽古を真摯な姿勢で取り組めば、自然と身につくものだと思います。

 真摯な姿勢とは、我を立てないことだと思います。
 我を立てない、自分のことしか考えない、自分の心を自分のことだけでいっぱいにしない、心の余裕をもうけることが想像力を生む余地になるのだと思います。

 空手の稽古において、我を立てない、真摯な姿勢を身につける第一歩は、指導者の言葉によく耳を傾けることだと思います。
 私は空手を本格的に習い始めた頃、指導してくれる師範や先輩の言葉は、時に理解できないことがあっても全力で聞くようにしてきました。
 空手を本格的に習い始めて 30 年が過ぎた今でも、自分が教わりたいと思う方の言葉は全力で聞くようにしています。
 私が得意とするカウンター、先は空手を本格的に習い始めた頃に教わった師範の約束組手が契機になっていますが、昔からの全力で聞く姿勢が今の私のカウンター、先の技となっている自負があります。

 指導者になった今、噛み噛みで拙い言葉での私の指導であっても、道場生には全力で私の言葉に耳に傾けるように導いて行きたいと思います。
 その導き方は、また別のブログで書きたいと思いますが、上記の一節の結びは「共感力は人を幸せにしてくれる」と要約できると思います。
 自分の幸せは、人に教えてもらうといったことでなく、行き着くところ〝自分の幸せを自分の五感をもって感じ取ること〟だと思います。
 人への共感力は「相手には相手の考えがあるように、自分にも自分の考えがある」といったように、自分と人を調和させる〝調和の共感力〟に昇華されるものと思います。
 調和の共感力は、人への共感力と並立する〝自分への共感力〟も派生させるものと思いますが、自分への共感力こそが、自分の幸せを感じ取る力となるように思います。

 カウンター、先などは調和の共感力を空手の技として、具現化させたものと個人的に思いますが、道場生の共感力を高めたいと思います。
 そして空手で共感力の源泉となる真摯な姿勢、その真摯な姿勢を培う指導者の言葉を聞く力を高めるために、道場生が私の言葉を聞き取りやすくなるように、もう少し滑舌は良くせねばと…。

 < ご案内 >
 3/5 ㈰に東京都、武蔵野の森総合スポーツプラザで第 2 回青少年フルコンタクト空手道選手権大会が開催されます。 
 同大会に私、逢坂が審判業務で参加するため以下の稽古をお休みさせていただきます。
 3/4 ㈯…美馬道場、鴨島道場全クラス
 3/6 ㈪…阿南道場全クラス
 3/7 ㈫…徳島市加茂道場全クラス
 関係者の皆様、よろしくお願い致します。
 さて同大会にはタイシン君、ルキ君、リコちゃん、タイセイ君が新極真会徳島西南支部から出場します。
 皆んな、最高峰の舞台で自分のベストを尽くして頑張れ !!
 3.3.2023 記

やせ我慢のススメ、武士は食わねど高楊枝

 先週のスパーリング、私の放った前蹴りを道場生が見事に膝でカット。
 不用意な前蹴りだったのでカットの当たりどころが悪く、私は足の親指の付け根を負傷しました。
 自分の不注意による負傷でしたが、負傷した瞬間は激痛が走り、一瞬「折れたか」と思いました。
 幸い大事にいたらず、負傷したことも悟れないように ( 悟られたかもしれませんが ) 平然とそのスパーリングを続け、その後の予定していたラウンドも全て消化しました。
 大事には至らなかった負傷ですが、スパーリング後は軽くびっこを引く状態で、数日は痛みとともに不自由な思いをしました。

 普通、スパーリング中に負傷すればスパーリングを中断し安静にすべきです。

 道場生のスパーリング中の負傷に対しては、スパーリングを中断させ安静にするように私も指導しています。
 しかし私は自分が負傷した場合、よほどの怪我でない限り ( というか、私の記憶の中でこれまでのスパーリングで中断したことはありませんが ) 中断しません。
 過去には上段膝蹴りを相手にダメージを与えないように蹴ったところ、飛んで蹴った後の軸足が宙に浮いている状態で軸足を払われ、足裏の足刀部分の骨にヒビが入ったこともあります。
 その時も様相は平然を装いましたが、足の痛みは平然を装えず、足を引きずりながらスパーリングを続け、最後まで中断することはありませんでした。
 足裏のヒビは普通、重度といってもよい怪我ですが、なぜ私はスパーリングを中断しなかったのか ?

 私がスパーリングを中断しない理由の一つは、試合への意識でした。
 その意識とは「試合中、負傷しダメージを露わにしてしまえば試合は判定で負ける、または相手選手にダメージ部分を狙われて試合中に最悪は倒されてしまう」といったものです。
 また「怪我をしても戦えるように」といった意識、また「怪我をしても避けられない戦いに対しての逃げない気持ちを養う」といった意識もありました。

 「怪我をしても」との意識は試合を超えた部分でもありますが、試合への意識はまだしも、試合を超えての意識、避けれない戦い状況などは、そうそうに起こらない平和な日本の日常感覚から言えば逸脱したものであり、単なる〝やせ我慢〟と揶揄されるものかもしれません。

 〝武士は食わねど高楊枝 〟という言葉があります。
 改めて意味を調べると「武士は貧しい境遇にあってお腹がすいていても、まるでお腹がいっぱいのように楊枝を高々とくわえて見せておかなければいけない 」とあり、現代ではやせ我慢の意味合いが強いものです。
 ネットでさらに調べると
 〝江戸時代の武士の多くは、今でいう政府や役所の役人であり、彼らの多くは私利私欲に走ることなく世の中のため、国家のために働いていました。
 特に、江戸時代も後半になってくると、武士より商人のほうが経済的には裕福だった時期もでてきます。
 そんな時代でも為政者としての武士は倫理規範として、無私の奉仕、誠実な生き様を示すことを心掛けていました。〟
 と以上の説明にヒットしました。
 「武士は食わねど高楊枝」という言葉は、本来は「貧しい環境であったとしても、表にはそれを出さずに気品高く生きていくべきである」という武士の美徳を表しているそうです。
 現代では愚かさや滑稽味を帯びた言葉となっていますが、しかし「武士は食わねど高楊枝」は〝やせ我慢〟としての武士としての美徳、そして美意識であったようです。

 一万円札で有名な、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家である福澤諭吉の著書に「痩我慢 ( やせがまん ) の説」というものがあります。
 福澤諭吉によると敵に対して勝算がない場合でも、武士が主君、主家のために力の限り抵抗することは〝痩我慢の情〟であり、「痩我慢の説」では明治時代の前時代である江戸時代の徳川幕府に仕えておきながら、明治政府にも仕えた顕官を痩我慢の情がないものと批判しました。
 また同書では「痩我慢は士風の美であり、士風の維持(=痩我慢)は万世の要なり」と書かれているそうです。

 福澤諭吉の著書では「学問のススメ」が最も有名に思いますが、「学問のススメ」では江戸時代のような封建体制を否定し、人間の自由平等、独立の思想に基づいての民主主義を提唱しています。
 士風=武士道であり、武士道は封建体制の産物です。
 福澤諭吉は封建体制を否定し民主主義を提唱しましたが、封建体制の産物である士風=武士道は〝万世の要〟と説いています。

 私は〝福沢諭吉〟〝痩我慢の説〟〝学問のススメ〟などは、教科書で習ったワードをネットで調べて、その概略の一部をわずかに知った程度の浅学ですが、福澤諭吉が封建体制を否定しながら士風=武士道を尊んだのは、外国の思想である民主主義を日本の気風に合ったものとするためのように感じます。
 士風=武士道は日本人の全体の気風であり、その気風の元に日本の民主主義を開花させたかったように思います。

 ブログでしつこく書いていますが、私は武道は武士道と思っています。
 となると武道は士風でもありますが、私のように一見滑稽で、愚かに、負傷をしてもやせ我慢でスパーリングを続けることは、士風にならう武道の心構えと弁明できるものかと思います。


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 やせ我慢のスパーリング、今後も身体の許容範囲を超えない限り、続けて行きたいと思います。

 ところで私には痛風の気があり、過去に 3 度発症しています。
 代表的な痛風の発症場所は足の親指の付け根ですが、私の過去の痛風の発症も足の親指の付け根であり、そこを強打し負傷したことが発症原因となりました。
 今回の負傷も痛風にならないか、負傷した夜は帰宅後にビールを飲みながら恐れていました。

 幸い発症しませんでしたが、痛風はなった人しか分からないと思いますが、痛風はまさに風が発症場所に当たったぐらいでも、骨折したように感じるぐらい痛いものです。
 痛風はすぐに治るものではありませんが、過去に発症した時もやせ我慢でスパーリングをしていました。
 痛風でのスパーリングは、その痛みゆえにやせ我慢の度合いが高く、その点、大いに士風を高めるものもしれません。
 しかし、さすがに痛風でのスパーリングは、もう経験したくありません。
 どうすれば痛風を避けられるのか、ビールを飲みながら考えて行きたいと思います。

 < ご案内・道場生対象 >
 4/16 ㈰に行われる第 40 回全四国空手道選手権大会の支部内締め切りは、今週の金曜日 3/3 となっています。
 出場予定で申込書と申込料が未提出な道場生は、お忘れなきようにお願い致します。
 3.1.2023 記