空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

躾 ( しつけ ) のススメ、躾から得る心身の自由

 一昨日の日曜日 (12/10) は四国・岡山合同稽古でした。
 毎回、四国・岡山合同稽古を企画、準備してくださる三好師範、野本師範代、今回もありがとうございました。

 今年の四国・岡山合同稽古は、今回が最後でしたが、来年もよろしくお願いいたします。

 また、参加した道場生の皆んなも、お疲れ様でした。
 皆んな、よく頑張りました。

 来年も、頑張って参加しましょう !!
 保護者の皆様も、お疲れ様でした。

 さて、空手の稽古の動きは、重心を前足に置く前屈立ち、重心を後ろに置く後屈立ちなど、日常動作ではあまり行わない動作が多々あります。
 日常動作ではあまり行わないゆえに、空手の稽古動作は非常にやりづらく感じる時があります。

 前屈立ちは前足の膝を曲げて、後ろ足の膝を伸ばしますが、初心者は前足の膝は曲がっていても、後ろ足の膝が伸びきっていない人がよく見られます。

 空手の前屈立ちでは、後ろ足の膝が伸び切らなければ前足への重心の乗りが悪く、前足重心が要点である前屈立ちとしては不十分となります。
 前屈立ちは立ち方がきまる瞬間に〝前足の膝を曲げて、後ろ足の膝を伸ばす〟といったことが身体動作として肝要となりますが、初心者の前屈立ちの後ろ足がなかなか伸び切らないように、頭で動作の要所が理解できていても実際にやってみると、なかなか難しく、その難しさに動作としてのやりづらさを感じます。

 「なぜ、空手の稽古ではやりづらい動作をわざわざ行うのか ?」といった疑問を、空手経験者は持ったことがある人も多いと思いますが、私がそういった疑問を質問された場合「組手での、合理的な技術となる動作を身に付けるため」と答えます。
 例えば両足に均等に体重を乗せて相手と相対している時、前蹴りを仕掛けられたとして、仕掛けられた瞬時に後ろ足に重心を乗せる後屈立ちになると、相手の前蹴りを躱すことができます。

 上記のような具合に空手の稽古でのやりづらい動作は、組手に必要な動作を身体に〝躾 ( しつ ) ける〟一面があります。
 上記のような説明でやりづらい動作の必要性を理解できても、やはり「やりづらいものは、やりづらい」と感じて、そのやりづらさが先立つと押し付けのように感じてしまいます。
 押し付けと感じるやりづらさは、身体の動きの自由を奪う不自由さにも感じてしまいます。
 そして、その不自由さは、やりづらさは身体の機能性を生み出す躾であるところなのに〝躾=不自由〟と、意義が変質してしまいます。

 人は自由を求めるものです。
 空手の指導していて、前屈立ちなどで後ろ足の膝を伸ばすように何回も指導しても改まらない人には、指導に聞く耳を持たないような悪気はなくとも「無意識に動作の不自由さを拒絶し、自由に稽古で動いているのかな ?」と思ったりします。

 しかし空手の稽古では、前屈立ちのような基本的な稽古以上に、不自由な動きが際立ち、その不自由な動きが空手の稽古の本質から稽古の意義を遠ざける稽古があります。
 それはスパーリング、そして組手です。

 初心者のスパーリング ( 自由攻防での組手試合形式の練習 ) は、相手の攻撃を上手くディフェンス ( 防御 ) できず、自分の攻撃を相手に上手く当てることができません。
 ティフェンス、オフェンス ( 攻撃 ) がままならないものですが、そのままならない様は〝不自由さ〟そのものです。
 逆に上級者は、スパーリングにおける瞬時の展開のその都度に、攻防においての合理的な動きが見られ、その動きの合理性は〝自由〟と形容できるものです。

 私は空手の稽古において求める自由は、スパーリング、そして組手での動きに求めるべきに思っています。
 空手の稽古における不自由な動きとは、先述の通り〝組手での合理的な技術となる動作を身に付けるため〟に行うものです。
 そのためには不自由に感じても、不自由な動きが持つ組手における合理的性を、身体に躾なければなりません。

 道場生には稽古動作のやりづらさを単に不自由とせずに、スパーリング、そして組手で自由に動くのため身体の躾として稽古に励んでもらいたいと思います。
 そして空手では「不自由に思える身体への躾から、本当に必要で大切な自由が得られる」と、認識して欲しいと思います。
 また空手の指導者として〝躾から自由が生じる〟といったことは〝躾の重要性〟として、とくに子ども達への空手指導の理念の骨子にしていきたいと思います。

 先日、以下の事件が報道されていました。

 容疑者の「いい写真を撮りたかった」との動機の根底には、自由な振る舞いとしての意識があるように思います。
 容疑者としては自分の好きなことで、自由に振る舞っただけかもしれませんが、結果としてはダイヤを乱し、たくさんの人に迷惑をかける結果になりました。
 容疑者は 20 代前半の若者であるそうですが、勝手な想像ですが、容疑者の成長過程には、物心がついてからは、人前で騒いだりしないような〝躾〟が希薄だったように思います。

 成長過程で〝躾〟が行き届いていれば、自分の自由を履き違えたりしないと思います。
 〝躾〟は、上記の空手の例のように、自由の意義を深める作用があります。
 〝躾=自由〟との空手における躾の構図を社会に提唱すべく、身体の躾が心の躾となる空手の稽古を、大切にしていきたたいと思います。

 12.12.2023 記