空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

緊張感のある空手の稽古のススメ、高いパフォーマンスを生む緊張感

 一昨日の日曜日(6/16)は、第2回東京都空手道選手権大会に審判員として参加させていただきました。

 同大会を主催、運営された新極真会・世田谷杉並支部支部長・塚本師範、塚本道場のスタッフの皆様、素晴らしい大会に参加させていただき、誠にありがとうございました。

 さて、私が支部長を務める新極真会徳島西南支部は、武道空手の教示を標榜しています。
 ブログでしつこく書いていることですが、私は武道を武士道と認識しています。
 よって武道空手を標榜することにおいては、武道精神=武士道精神に則した稽古の教授を心掛けています。
 武道精神に則した稽古の定義は色々あると思いますが、その中で〝緊張感〟のある稽古は、武道精神に則した稽古の根幹となるものに思います。
武道精神の培養土の一つは稽古での緊張感と思いますが、〝武道〟と〝緊張感〟は切り離せないものであり、その理由は武道が武士道であるからと私は認識しています。

 「一生懸命」という言葉があります。
 現代社会では、日常会話でも用いられるありふれた言葉ですが、以前のブログでも書きましたが、その言葉の由来は下記のとおりです。

 元々は中世(鎌倉時代)の武士たちが、先祖代々受け継いでいる土地を命がけで守ることから、「一懸命」という言葉が生まれました。 
 それが、近世(江戸時代)になって、土地のことがなくなって、命がけで何かをするという意味になり、「一懸命」となりました。

 「一生懸命」は武士道精神に由来する言葉です。

 「命を懸(か)ける」という言葉には〝緊張感〟が言葉の風合いとして存在しますが、「一生懸命」に稽古することは代表的な武道精神の一つです。
 「一生懸命」という日常語は、〝武道〟が〝緊張感〟から切り離せない武士道からの由縁の一つにも思いますが、武道は修練者の心・技・体に表出されます。
 修練者の心・技・体が武道として表出されるため、武道における緊張感は雑多な緊張感の中でも、洗練された修練者による緊張感でなければならないと思います。

 洗練された緊張感とは、封建的体質による指導者の暴言・暴力などによる被支配的な緊張感ではありません。

 武道の心・技・体は、例えば空手ならば、組手のパフォーマンスに表出されるものですが、武道における洗練された緊張感とは、修練者の心・技・体におけるパフォーマンスを高めるものでなければならないと私は思います。
 緊張感は一般的に心と身体を萎縮させるものであり、武道を問わず、一般的な緊張感は個人の様々なパフォーマンスを低下させるものです。

 しかし私自身、道場生によく語ることですが、緊張感は無くなるものではありませんが、修練や経験で慣れることができます。
 修練や経験で緊張感に慣れることが出来れば、緊張感は集中力となります。
 そして〝緊張感から生じる集中力〟は、心・技・体の高いパフォーマンスを生み出します。

 「緊張感が集中力となる」ような洗練された緊張感が存在することは、自身の長い選手経験から断言出来るものです。

 私の場合〝緊張感から生じる集中力〟のおかげで、たくさんの強豪選手と渡り合えることが出来ました。
 武道の由来から、そして武道としてのパフォーマンスのために、私は空手の稽古に緊張感は欠かせないものと思います。

 ところで、政治家は政策などを語る時「緊張感をもって当たる」などと、よく口にします。
 緊張感は、物事の成・否を左右する心構えとしても用いられます。
 緊張感は成・否または正・否を分かつ、心構えにもなるものですが、最近の政治家は良く失言で失脚します。
 失言し、失脚する政治家の言動には謙虚さが欠けていますが、緊張感の無さは、前述のような正しいパフォーマンスのための集中力の無さ、そして謙虚さの無さのように思います。

 個人的に一昔前に社会でさかんに唱えられた〝ゆとり教育〟は、緊張感を〝否〟とするような風潮を生んだように思います。
ゆとり教育〟は現代社会にあっては見直されていますが、緊張感を否とするような風潮は根強く残り、武道空手の教示に携わるものとして、緊張感を受け付けない子ども達が増えているように思います。
 人間としての緊張感の大切さは、最近の政治家が身を以て示してくれています。

 新極真会徳島西南支部は武道空手を教示する空手道場として、身を違(たが)えないための大切な緊張感に馴染むことの出来る子ども達の育成の場として、武道としての洗練された緊張感のある空気を稽古で醸し出して行きたいと思います。

 6.18.2024 記