空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

空手の本質を見失わないことのススメ、空手のスポーツライク化のある程度の歯止め

  一昨日の日曜日 (4/4) は、昇級審査会及び新極真会徳島北東あわじ支部さんとの徳島合同稽古でした。

 参加された皆さん、お疲れ様でした。
 また保護者の皆様も、お疲れ様でした。

 次の徳島合同稽古は以下の通りです。

 4/7 ㈮…徳島県立中央武道館・柔道場にて 18 時 45 分~20 時 45 分 < 途中参加も OK>
 道着着用にて、同日の徳島市加茂道場は徳島合同稽古に代替しての休講です。
 初心者向けのミット稽古も行いますので、道場生はどなたでもご参加ください。
 参加できる道場生の皆さんは、頑張りましょう !!

 さて SNS で色んな空手を知ることのできる昨今、空手諸流派は SNS で盛んに自流をピーアール しています。
 SNS で自流を することは、空手の普及において大変良いことに私は思います。
 私もブログで空手について綴り、自分の教える空手を していますが、SNS での で自流を〝楽しい空手〟とうたう流派を最近、多くみかけるようになりました。
 確かに空手には、楽しいことがたくさんあるもので、「空手は楽しい」と することに間近いではありません。

 しかし私が空手を本格的に始めた 30 数年前、SNS などはありませんでしたが、広告、宣伝等で〝楽しい空手〟を する流派はあるにはありましたが、ごくわずかでした。
 また当時は〝楽しい空手〟とは真逆のイメージを醸す〝強い空手〟を する流派が多く、その時代に本格的に空手を始め、また〝強い空手〟に惹かれて空手を始めた私 には最近の〝楽しい空手〟の は正直あまりピンとこないものです。

 先のブログに書いたように、スポーツの本質的な精神性は〝楽しむこと〟と私は思います。
 〝楽しい空手〟と する空手には、私はスポーツライクな空手であるイメージを持ちます。
 スポーツライクな空手は、今の時代に求められている空手であり、また必要とされている空手かもしれません。
 私も時折、空手指導者として、ゆとり教育以後の人たちによるスポーツライクな空手の需要性を感じたりします。

 私のような古い考え方の人間であっても、空手のスポーツライク化はある程度は受容すべきなのかもしれません。

 しかし空手のスポーツライク化は、ある程度で歯止めをかけるべきに思います。
 空手においてスポーツライク化が行き過ぎると、空手の本質は見失われると思います。

 以前、我々の空手とは違う空手選手が「突きの練習でミットを叩くと、手が腫れるのでミットは叩きません。」といったことを SNS で発信しているのを見かけました。
 上記の選手は、我々の空手とは違う空手では一流の選手です。
 空手の突きは、素手で人体を打つ技です。
 鍛えていない素手の拳で人体を打つと拳を痛めるもので、空手は素手の拳を鍛える必要があります。
 昔からの空手の象徴の一つである巻藁打ちなどは、拳を鍛える目的が強いもので、同じく空手の象徴の一つである板や瓦の試し割りは、拳の強度を含めた突き威力を試す ことが本来の目的です。

 私は硬い床での拳立て ( 平手でなく握り拳での腕立て )、また素手でのミット打ちなどで拳を鍛え、試合は素手の拳で実際に人体を打つ ( 顔面は除く ) いわゆるフルコンタ クトルールで行ってきました。
 上記の、我々の空手とは違う空手の一流選手の発信には〝空手では拳は鍛えるもの〟との、空手における本質の一つが感じられません。

 「本質を欠いた空手に空手の意義はあるのか ?」と、正直、私は疑問に思います。

 また上記と同じ空手の別の選手は「空手の蹴りは当てるものではないので…」と発信していましたが、その投稿を見かけた時は私は唖然としました。
 本質から外れた空手の技など、私は虚飾に思います。  虚飾にまみれた空手は虚構に思います。

 空手は空手道として、空手特有の格調高い精神を得ることのできる武道に思いますが、空手道は空手の本質をまとった空手であると思います。
 虚構の空手からは、虚飾の精神性しか生まれないように思います。

 先に「ブログを改めて、違和感を感じるスポーツのような武道について思うことをまた書きたい」と書きましたが、私が違和感を感じるスポーツのような武道とは、虚飾、 虚構な空手、また空手のみならず虚飾、虚構な武道です。

 「武道の精神的な本質はスポーツとは違う」とも、先のブログで書きました。
 その違いを混同すると、武道は虚飾、虚構に陥ります。
 虚飾、虚構は人を偽るものですが、虚飾、虚構の武道が、疑問をいだくような技を得意げに披露するさまが、昨今の SNS ではよく見かけます。

 武道、空手における本質は、例えば「突きを強くするためには、何をすべきか」といった技の本質を追求することから見えてくるものと思います。
 「突きを強くするには、少々は手を痛める、痛い思いをすることはやむ得ない」といった本質を見失わない空手を、新極真会徳島西南支部では指導していきたいと思います。
 4.4.2023 記