空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

 〝運動〟空手のススメ、運動が苦手なことを悪いこととしない

 前の日曜日 (10/8) は愛媛県西条市で、第 4 回日本強育空手道選手権大会でした。

 初めて参加させていただいた大会でしたが、大会を主催された福田道場・福田師範、スタッフの皆様、参加させていただきありがとうございました。

 新極真会徳島西南支部からは 9 名が出場。

 アヤネちゃん、イロハちゃん、リョウト君、ヒナタ君が優勝、イマリちゃん、ルイト君が準優勝でした。

 一昨日の月曜日 ( 祝日・10/9) は、名古屋市で第 19 回愛知県空手道選手権大会でした。

 大会を主催された新極真会愛知中央支部支部長・山本師範、山本道場のスタッフの皆様、参加させていただきありがとうございました。

 新極真会徳島西南支部からは 4 名が出場。

 ハナちゃん、タイセイ君、カイト君が優勝でした。

 両大会に出場した選手の皆んな、入賞した人も、出来なかった人も、よく頑張りました。

 また次の大会を目指して、頑張って行きましょう !!
 私も両大会に応援、審判参加して少々疲れましたが、保護者の皆様もお疲れ様でした。

 さて最近、下の画像の雑誌を少しずつ読んでいます。

 定期購読している訳ではなく、特集テーマに興味を覚え、初めて購読しました。
 興味深い内容がたくさん記載されていますが、その中の一つに「運動が苦手ならば、無理に運動することはない。」といった記事がありました。
 運動は健康に良く、運動を推奨することは医者の定番と思っていましたが、「苦手な運動を無理にすることはストレスになり、かえって身体に悪い。」といったことが上記の記事の内容です。
 私は空手指導者ですが、空手の効能の一つとして運動は身体に良いと、運動を推奨する立場の人間です。
 しかし上記の記事の詳細には、合点がいく部分もありました。

 昔から肥満体の私は、元来さほどに運動が得意な方ではありません。

 縄跳びの二重跳びは 51 年の生涯で出来たことがなく、鉄棒の逆上がりは高校生になって初めて出来るようになり、長距離走ではいつも周回遅れでゴールしていました。
 私の通っていた小学校では冬場の体力作りに縄跳びが推奨され、休み時間は縄跳びの練習が義務化されていましたが、二重跳びはおろか交差跳びなども満足出来ないため義務であることが苦痛でした。
 逆上がりは、小・中・高校と体育の授業でありましたが、小・中は全く出来なかったため簡単に出来る同級生に対して劣等感を感じていました。
 校内マラソンでは、いつも最後のあたりの順番でゴールしていましたが、最後のあたりでゴールするものは先にゴールしている人たちから「頑張れ !!」などの声援を受けながらゴールします。
 先にゴールして声援を送る人は、励ましの気持ちで良かれと思い声援を送っているのでしょうが、その気持ちは有り難く思うのですが、鈍足をさらけ出し疲労困憊の苦しい姿を見られながらゴールすることには恥ずかしさを感じていました。

 運動に苦痛、劣等感、恥ずかしさなどを感じるならば、それは単なる以前のブログで書いた悪玉ストレスであり「ストレスを感じる運動が身体に悪い」とする説は、個人的な経験から大いに納得がゆくところです。

 納得のゆくところですが、〝苦手な運動を無理にすることはない〟という説は、全面的には受け入れがたいものです。
 運動=スポーツとされがちですが、本来、運動はスポーツのみに定義されるものではありません。
 立って歩くこと、椅子から立ち上がること、何かの物を持つことなど、人間の日常生活の動作もすべて運動になります。
 人間の日常の生活動作はすべて運動ですが、運動のすべてを否定しまうと日常の生活運動にも支障がきたし、その支障は生活そのものに投げやりになる無気力状態を誘発するように思います。

 先日の新聞に小・中学校の不登校者が、今年は過去最高になったとの記事が掲載されていました。

 不登校の一番の理由は無気力と掲載されていましたが、子ども達の無気力を誘発したのはコロナ禍による活動制限、運動不足とも書かれていました。
 別段、スポーツに秀でるために運動はしなくても、日常の生活動作の基盤となる歩くこと、立ち上がること、物を持つことなどの運動力を高めるために、運動にはやはり取り組むべきかと思います。
 その高め方は走ったりすることなどのスポーツ的な運動になったりするのですが、スポーツ的な運動でも苦手意識を持たない方法で取り組めば「苦手だから運動はしない。」という人の意識も変わるように思います。

 スポーツには競争の概念が付きまといます。
 スボーツにおける競争は順位やタイムで表され、それに優れることで、もてはやされ、恩恵も受けることが多々あります。
 しかし、もてはやされない、恩恵を受けれない人にとっては、競争における順位やタイムは劣等意識となる場合があります。
 また競争が煽られる環境、いわゆる勝利至上主義においては、競争で劣ることは悪いことと捉えがちです。
 そのため〝運動が苦手〟なことは〝悪いこと〟と、運動が苦手な人は感じるようになると思います。

 運動が苦手なことは、悪いことではありません。
 広義の意味において運動をスポーツの競争概念から切り離し、運動を日常生活に結びつけるような大局的な視点が、運動が苦手で運動から遠ざかる人を少なくするためには必要のように思います。

 空手もスポーツと同様に試合などの競争があり、苦手意識が生じる要因があります。
 先述したように競争は競争で良い部分があり、それを取り除くべきではありません。
 以前のブログで書きましたが、空手にはスポーツと違う武道としての精神性があります。
 武道の精神性はスポーツのような競争は、修行過程の単なる一局面にすぎないという視点を持ち、試合結果を武道のすべてとはみなしません。
 それゆえ修行において苦手なことがあったとしても、それを受け入れ、克服することを武道とするもので、本来の武道は競争の概念とは一線を画するものです。

 競争とは、人との差が露わになるものですが、その差は〝人との違い〟と捉えることができます。
 人との差を単なる違いとし、そこに優越感、苦手意識などを持ち込まないことは武道の思想の一つです。

 人との違いは、捉え方次第で意識が変わるものです。
 私のような小さい頃からの肥満体は、肥満体ゆえに縄跳び、鉄棒、長距離走などは苦手でも、体重が重いために力はありました。
 そのため自分の力を活かすことを考えて、自分にあった広義としての運動を模索してきました。
 一つの運動が苦手でも、その苦手なことの反面として、他方で秀でた部分を見つけて意識することは、人との違いを多角的に捉え、自分の苦手意識を変質させるといった手段になりえます。
 また私は縄跳びは出来ませんでしたが、鉄棒の二重跳びは高校生の頃に出来るようになり、長距離走は空手の試合のために自分のペースで長距離走レーニングに取り組んでいる時期は、人並みに走れた時期もありました。
 苦手なことでも、時間が経てば、また自分のペースで取り組んでいけば、苦手でもなくなってくるという長期的視野も、人との違いの捉え方からは見えてきます。

 運動は〝運を動かす〟と唱える人がいますが、私はこの解釈が好きです。
 運動はバイタリティーを高めるもので、それが〝運〟となるように思いますが、運動は人の人生を良くする可能性です。
 武道としての正しい空手は、学ぶ人への〝運動〟になるものに思います。
 自分の指導する空手が〝運動〟となるように、日々の指導に努めていきたいと思います。

 < ご案内 >
 10/12 ㈭~10/20 ㈮の逢坂担当クラスは、第 13 回全世界空手道選手権大会関連の出帳のため全クラスお休みです。
 また 10/21 ㈯の鴨島道場の稽古は所用のためお休みです ( 同日、午前中の美馬道場の稽古は通常どおり )。
 関係者の皆様、よろしくお願い致します。
10.11.2023 記