空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

武道精神を身につける事のススメ、「退屈」「意味が分らない」ことでも遵守して素直に取り組む

 昨日の日曜日 (10/1) は愛媛県西条市で四国・岡山合同稽古でした。
 徳島西南支部からの参加者は、今回も四国・岡山合同稽古でしかできない貴重な稽古を積むことができました。
 参加者には、今回の稽古を今後に活かせるように支部で指導していきたいと思います。

 いつも四国・岡山合同稽古を開催してくださる三好師範、野本師範代、今回もありがとうございました。
 四国・岡山合同稽古は、四国・岡山地区の新極真会道場生が大きなステージで活躍できるように、三好師範の発案で始められた稽古会です。
 今月の 16 日㈯、17 日㈰には、フルコンタクト空手界で一番大きなステージである、第 13 回全世界空手道選手権大会が開催されます。
 同大会には今大会より新設された型部門に、徳島北東あわじ支部から将口選手、高知支部から山中選手、岡山東支部から田中選手が出場します。
 新極真会徳島西南支部の道場生にも、自分の意識の世界が変わる、世界大会のステージを目指して欲しいと思います。

 このブログをご覧になっている皆さん、四国・岡山地区の 3 選手、そして日本代表の全選手の応援をよろしくお願い致します。

 さて、以前のブログでも書きましたが、私はスポーツと武道とは違うものと思っています。
 その違いは、精神的本質にあります。
 スポーツの精神性は、その語源の由来にあると私は思いますが、スポーツの語源はネットで調べると以下の通りです。

 「sports スポーツ」の語源はラテン語の「deportare デポルターレ」にさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」が転じて「憂いを持ち去る」という意味、あるいは portare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という意味の語である。
 これが古フランス語の「desporter」「(仕事や義務でない)気晴らしをする、楽しむ」となり、英語の「sport」になったと考えられている。

 上記の語源から、スポーツの精神的本質は〝楽しむ〟ことにあると思います。

 一方、武道の精神的本質。

 私は常々ブログで書くように、武道は武士道と思っています。
 武士道は「弱いものいじめをしない」などといった、武士の美意識です、
 武士道としての武道は、武士が昔の人の職業でもあったゆえに、スポーツの由来が「仕事や義務でない、気晴らし」であることに対義的な仕事的、義務的な〝すべきこと〟が精神的本質に思います。
 精神的本質の〝すべきこと〟が美意識であるがため、武士道、そして武道は高尚とされるように私は思います。
 武道の精神的本質である〝すべきこと〟、何を〝すべき〟かは多岐にわたり、それを分類すると「義務を果たす」といった〝課せられたことを成す〟という美意識が派生します。

 武道の精神的本質の一つである〝課せられたことを成す〟という美意識は、ただ思うだけの脳内の意識に止めてはならず、身体の実動が伴われなればなりません。
 その脳内意識の身体の実動として、武道としての空手においては、型 ( 基本稽古、移動稽古、型稽古を総じての ) の遵守があるように私は思います。
 空手の総じての型は、手の位置、足の位置などが細かく決められています。

 正拳中段突きという型で、突きの位置を鳩尾の位置に合わせるように型として指導されれば、それを遵守しなければなりません。
 その遵守は、言わば〝課せられた〟ものです。
 〝課せられた〟ものは実動の効果として意味があって課せれらるものですが、その意味は空手を習い始めた最初から誰しもが理解できるものではありません。
 私も空手を始めた頃は、「組手では顎の位置に拳を構えて突きを打つのに、どうして正拳中段突きは脇から打つのか ?」などと型の意味が分からなくて退屈に思い、特に空手の型は実践での動きと大きく異なる動作も多いので、意味が無いように思ったりしていました。
 しかし空手を始めて 30 年が過ぎ、近年ようやく意味が理解できるようになりましたが、退屈に、また意味が無いように思っていた型でも、空手を習い始めた頃から指導された事には素直には取り組んでいました。
 その取り組みは型を遵守するという、脳内意識の身体の実動として、手前味噌ながら武道精神に基づく空手への姿勢であったと思います。

 長年の武道精神に基づく空手への取り組みで、いささかの武道精神も身につけられたように同じく手前味噌ながら思います。

 武道精神は人の色んな行動に反映されるものですが、私が身につけたと勝手に思う武道精神の一つとしては〝課せられたことを成す〟という美意識です。
 〝課せられたことを成す〟という武道精神は、空手の指導者としての現在にあっては、拙いながらも範を示すことで実動しているつもりです。
 空手の指導者として範を示すことは、指導者の方々によって色んな形があると思いますが、私の範の示し方はスパーリングです。

 自分の指導内容をスパーリングで実践することを、範の示し方と任じています。


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 私が言うのもおこがましいですが、武道精神は行き着くところ、それを身につけた人の人格になると思います。
 自分の人格がどういったものなのかは、当の本人は分らないものであり、分からなくて良いものと思います。
 「こういった人格であろう」と自分の望む人格はあっても、その望みが行き過ぎると人格を取り繕うようになります。
 自分では分らない自分の人格であっても、ただ人格は確実に存在するものです。

 人格は簡単に言えば、他人の自分の感じ方に思います。
 人格は社会的なその人の評価ともなり、評価はその人の資質としても見られ、その人の人生を大きく左右するものであるように思います。
 社会で夢や希望があるならば、自分の人格を夢や希望を叶えるための資質に合致させる、人格の修養が必要となります。

 修養とはネットで調べると「精神を練磨し、品性をやしない、人格を高めること」とあります。
 人格修養のためには、自分の望む人格を取り繕うよりも、ボランティア活動のように社会的に評価を受ける精神性を持った行ないに専一すれば、自ずと人格は修養されるものに思います。
 スポーツの精神性である〝楽しむ〟こと、社会では〝楽しむ〟精神性も大いに受け入れられ評価されます。
 スポーツの精神修養も人格修養には大いに有効に思いますが、しかし武道の精神性の一つである〝課せられたことを成す〟などは、社会の重要な構成要素を担う精神として〝楽しむ〟こと以上に必要とされるものに思います。

 社会の重要な構成要素を担う〝課せられたことを成す〟ことの代表例は、例えば納税です。
 四国・岡山合同稽古が行われた愛媛県の昨年度の県税の納付率は 99.54% で全国 1 位との報道も先日されていましたが、社会で納税が滞ると社会機能に大きな支障をきたします。
 〝課せられたことを成す〟などといった武道精神は、社会構成上の支柱的精神にもなりうると思い、私は武道として空手を指導しています。

 道場生には武道精神を身につけて欲しいと思いますが、空手で武道精神を身につける方法はシンプルです。
 稽古で課せられることに「退屈」「意味が分らない」などと思っても、遵守して素直に取り組むことです。
 繰り返しになりますが、武道精神は人格の修養のために身につけるべきものです。

 人格は、他人の自分の感じ方です。
 他人が自分をどう感じているかは、多くの人が気になるところと思います。
 しかし、気になっても人格は取り繕うべきものではありません。
 〝課せられたことを成す〟などといったことに一心に専一していれば、自分の人格を自分で感じる出来事が、時折、あったりするものかと思います。


 10.3.2023 記