一昨日の日曜日 (6/11) は東京都大会でした。
エントリー選手は 1,200 名を越え、非常にレベルの高い大会でした。
大いに勉強になった大会でしたが、大会を主催・運営された塚本師範、塚本道場のスタッフの皆様、素晴らしい大会にお招きいただきありがとうございました。
また同日 (6/11) には高松市錬成大会が開催されました。
私は東京都大会に出席していたので、武田指導員が同行してくれましたが、新極真会徳島西南支部からは 12 名が出場。
うち型でカナト君が優勝、アヤネちゃんが準優勝、サトル君、コウダイ君が 3 位。
組手でアネネちゃん、ウタ君、ユウジ君が優勝、イッサ君、コウダイ君が準優勝、サトル君、カナト君、シリュウ君が 3 位 ハルト君が 4 位でした。
出場者の入賞率が高いことから、出場した皆んなの健闘が感じられます。
皆んな、よく頑張りました !!
保護者の皆様も、お疲れ様でした。
同行してくれた武田指導員も、ありがとうございました。
さて空手に問わず、様々な競技の大会でレベルの高さを感じさせる要因は、選手の卓越した技術、強靭なフィジカルの強さ、苦しい対戦相手との競り合いにも屈しない選手の気持ちの強さにおいてと思います。
それら競技選手の心・技・体においては、その背景に「相当、鍛えて来たんだろうな」などと思わせる、日頃の鍛錬も感じ取る事ができます。
日頃の鍛錬は、アスリートの精神であると個人的に思います。
アスリートとは以前のブログでも書きましたが「スポーツや、他の身体運動に習熟している人。スポーツや、身体的強さや俊敏性やスタミナを要求されるゲームについて、トレーニングを積んだり、技に優れている人のこと。」といった意味です。
上記の意味合いからアスリートの精神は、〝鍛錬〟〝自らを鍛えること〟にあると思います。
私はブログでよく書くように、武道とスポーツは精神的本質が違うものですが、競技を通して共通点を有するものであり、競技を通して本来違うものである武道とスポーツの精神的本質は、互いに全うできるものと思っています。
武道を志す人、スポーツを好む人、ともに競技を通してアスリートであることを目指すべきに思っています。
アスリートの精神的本質は「身体運動への習熟」と解釈できるものであり、同時にそれは「自らを鍛えること」「鍛錬」とも解釈できるものに思います。
アスリートの精神「自らを鍛えること」「鍛錬」、それは人間にとって、とても尊い思想に思います。
人間は「鍛えれば、強くなれる」などと、鍛えることによって自分が良くなれると思わなければ、自らを鍛えるものではないと思います。
つまり自らを鍛えることとは「鍛えれば強くなることを信じる」と〝自らに希望を持つこと〟であり、「鍛えれば強くなれる」と〝自らの可能性を信じること〟であるがゆえに尊いように思います。
競技には引退がありますが、武道を志す人、スポーツを好む人も競技を通してアスリートとして自らを高め、競技を引退してもアスリートの精神は保ち続けるべきに思います。
武道、スポーツに取り組むことの意義は、ある意味、生涯に渡って自分への希望を持ち続けることが出来ること、生涯に渡って自分の可能性を信じることが出来ることにあると思います。
武道、スポーツ、アスリートの精神をもって見出した自分への希望や可能性は、人生そのものに反映するものと思います。
人の生涯にあっては、希望や可能性を奪われるような困難に見舞われる時があります。
アスリートは、鍛錬によって希望や可能性が見えてくることを、身体を通して識るものです。
希望や可能性を奪われるような困難に見舞われても、アスリートの精神があれば困難を鍛錬と捉えて、自分への希望と可能性を持ち続けることが出来ると私は思います。
また〝絶望の中でも、希望と可能性を見つけることがアスリート〟と自覚し、訪れるかもしれない絶望に備え、もし絶望に見舞われても乗り越えれるように、常日頃から鍛錬を続けることがアスリートであると私は思います。
昨今の日本においては、自殺者が増加しているとされています。
コロナ禍が相まって、その傾向は増加したとも言われています。
自殺者が増加している傾向は、日本の社会から希望や可能性が希薄になっていることを表しているように思います。
そのような今の日本の社会であるからこそ、武道、スポーツを通してアスリートの精神は広がるべきに思います。
アスリートの精神は素晴らしいものですが、実際コツコツと鍛錬を続けること難しいものです。
鍛錬を妨害する誘惑があったり、身体の疲労などの不調で鍛錬への気力が喪失したり、鍛錬を怠る理由は様々に生じます。
都合で本当に鍛錬が出来ない時もあるものですが、そうでない時に鍛錬を怠る時には〝後ろめたさ〟を感じるものです。
その〝後ろめたさ〟は鍛錬から逃げる、弱い自分への〝後ろめたさ〟ですが、私は鍛錬においては、鍛錬をさぼり〝後ろめたさ〟を感じる事が、時にはあっても良いと思います。
〝後ろめたさ〟を感じる事は、弱い自分への認識です。
弱い自分への認識は、先のブログで書いた〝自己に注意を向ける〟機会となり、〝自己認識〟を深める契機になると思います。
肝心なのは〝弱い自分への自己認識を、どう捉えるか ?〟にあると思います。
アスリートであるならば、弱い自分を良しとせず、弱い自分に希望と可能性を持つために、鍛錬をさぼっても止めないと思います。
アスリートは鍛錬を怠ると後悔し、後悔の都度に自己認識を深め、そして自らを奮起させ、鍛錬を続けるものです。
鍛錬は、時にはさぼりながらも続けていけば良いもので、さぼりながら続けていくことにも意義はあると思います。
私もさぼりながら、鍛錬を続けてきました。
空手は鍛錬をさぼると、その後ろめたさがダイレクトに身体で感じる後悔となります。
その後悔を感じる機会は、組手・スパーリングです。
今の私は、中高生の道場生とのスパーリングがほとんどです。
まだまだフィジカルに差があり、後れを取る事はありませんが、今年 51 歳を迎える私にとって伸び盛りの彼らとのスパーリングにおいては、鍛錬の怠りはすぐに後悔となります。
また少しずつ強くなっている彼らとの、この先のスパーリングを考えると、絶望の影がちらつきます。
アスリートについて偉そうなことを書いてきましたが、自身がアスリートでいられるか、を今の私は試されていると思います。
〝アスリートであるべき〟〝アスリートの精神を持ち続けるべき〟などと、偉そうなことを書いた手前、意地でもアスリートを貫きたいと思いますが、私は組手・スパーリングでアスリートであることを通したいと思います。
そのためには今後も自身の鍛錬を欠かさないようにせねばなりませんが、すぐに後悔することになりますが、時にはさぼりながら、気負わずに自分への希望と可能性を持ち続けていきたいと思います。
6.13.2023 記