昨日 (2/19) の日曜日は愛媛県新居浜市で四国・岡山合同稽古でした。
参加した道場生は、今回も良い稽古が出来ました。
合同稽古を主催、準備していただいた三好師範、野本師範代、近藤先生、誠にありがとうございました。
参加した道場生の皆んな、よく頑張りました。
それぞれの試合に向けて、昨日学んだことを活かせるように、また頑張ろう !!
また保護者の皆様もお疲れ様でした。
さて先週はバレンタインデーでした。
幼・小・中・高・大学とバレンタインデーに良い思い出がなく、その日は惨めで苦い思いをチョコレートの代わりに散々に味わってきた私も、今は空手の先生の役得でたくさんのチョコレートをいただくようになりました。
今年も皆さん、ありがとうございました。
道場生からはチョコレートに添えてお手紙もくれた子がいましたが、その中の一通には「空手がつらい時もあるけど、これからもがんばるので、よろしくおねがいします。」との一文が書かれていました。
書いてくれたのは低学年の子でしたが、我々の空手は実際に突き蹴りを当てる空手、「空手がつらい」との一文は紛れもない彼女の本心だと思います。
道場生に「空手がつらい」と思われるのは、辛いことが空手の本質の一面であるとは言え、指導者としてはちょっと複雑に思います。
しかし「これからもがんばる」と書いてあるのも彼女の本心に思います。
〝辛いけど、頑張ろう〟と思う彼女の気持ちには、指導者として救われる思いがします。
もし彼女が、誰かに「辛いのに、なぜ空手を頑張るの ?」 と問われれば、上手くは答えられないと思います。
彼女が空手を頑張る理由は、恐らくは、空手は辛いからこそ頑張る意義があることを漠然と感じているからに思います。
小さい女の子が〝辛いからこそ空手は頑張る意義がある〟と思う気持ち、私はその気持ちは高い次元の感情とされる〝情操〟であると思います。
それも武道の情操であると思います。
このところのブログでよく書いていますが、私は武道とは武士道と思っています。
武士道は不文律で漠然とした精神の美意識ですが、不文律、漠然なゆえにその精神を表す言葉が多く残されています。
そのうちの一つ「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も」との言葉は、藩政改革を断行しアメリカ合衆国大統領のジョン・F・ケネディも尊敬したとされる江戸時代後期の米沢藩主、上杉鷹山の言葉です。
また明治維新を主導した薩摩 ( 現在の鹿児島県 ) 武士団には、「議を言うな」との言葉が古くから言い伝えられているそうです。
「議を言うな」とは「理屈を言うな」といった意味ですが、上杉鷹山の「為せば成る」同様、両者の言葉に論拠みたいなものはなく、まさしく漠然とした精神の美意識に思います。
バレンタインの手紙に書かれていた〝つらいけどがんばる〟の気持ちも、その論拠をただせば漠然としたもので、漠然ゆえに私は上杉鷹山の「為せば成る」、薩摩武士団の「理屈を言うな」といった言葉と同様の精神の美意識だと思います。
〝自分はどうあれば正しく、美しく生きられるのか〟といった武士道における美意識のように、高い次元の感情を漠然と心に宿すことは、先に書いたように〝情操〟と思います。
そういった情操は〝頑張ることが、凛々しさとしての、美しい人間の生き方〟と感じ取るような〝情緒〟を育むものであり、また逆に情緒は、情緒を自身に反映し自身の行動とする情操に至るものと思います。
昨今、女性で空手を習う人も増えてきましたが、しかし空手は男性の方が多い世界です。
加減が出来ない小学校低学年以下のスパーリング、組手では、男子に容赦のない突き蹴りを当てられて泣く女の子の姿もしばしば見受けられます。
そういった世界であるからこそ、女の子の方が「空手はつらい」と思うことが多くあり、そしてそう思うことは空手では不憫ながら避けられないことだと思います。
バレンタインデーでチョコレートをくれる道場生は、手紙をくれた子同様に、皆んなが「空手はつらい時もあるけど、頑張ります。」といった気持ちを持って、空手を頑張っていると思います。
その気持ちは武道としての情操を高め、多感な社会的な情緒を育むものと思います。
武道の情操により育んだ多感な情緒は、彼女たちが大人になった時、きっと彼女たちの凛々しさなどの素敵な魅力になっていると思います。
大人になるまでに色んな道が開け、大人になった彼女たちは自分の道を進み、空手はしていないかもしれません。
しかし、それぞれの道を大人になった彼女らは、きっとその魅力で凛々しく歩んでいると思います。
そんな彼女たちを思い浮かべながら、いただいたチョコレート ( お酒もありますが ) は全ていただきたいかと。
2.20.2023 記