空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

武道感覚のススメ、セコンドの礼に思うこと

 我々の空手の組手試合では、セコンドと呼ばれる大会を通して選手のサポートをする役割があります。
 セコンドは選手の競技中は、舞台またはマットのすぐ近くで試合へのアドバイス、声援を送りますが、このセコンドをされる方で選手と一緒に競技の開始と終了の礼を行う方がいます。

 我々の新極真会にはほとんど見られず、諸流派の方々に多く見られますが、私は個人的にセコンドの礼に関しては違和感を覚えます。
 また新極真会の組織の総意としても、同様に違和感から、セコンドの競技での礼は不要としています。
 セコンドが礼をする姿を「礼儀正しい」と見る向きもあるようですが、なぜ我々は違和感を感じるのか ?
 今回のブログは、セコンドの礼に対する違和感への私見を書いてみたいと思います。

 そもそも空手の組手試合は一対一の競技です。
 空手の組手試合は選手二人が、心技体の攻防を織り成す空間であり時間です。
 それは選手二人の〝間〟と言えるものであり、選手二人だけの占有の〝間〟とも言えるものと思います。

 選手は試合において自身の心技体、総じて魂の昇華をかけて死力を尽くすものですが、試合は選手の魂が交錯する崇高な〝間〟であるがゆえに、礼を持って始め、礼を持って終わらせるものと個人的に思います。
 試合における始まりと終わりの礼は、選手二人だけの〝間〟の始まりと終わりと言えるものと思いますが、セコンドが礼を示すことは選手二人の〝間〟に割り込むようなことだと思います。
 私がセコンドの礼に違和感を感じるのは、セコンドの礼に選手の〝間〟への割り込みを感じるからです。
 試合における選手だけが織り成す〝間〟、選手の技と体は視覚で捉えることができますが、選手の心をまとった技と体 < 心技体 > である魂は感覚で捉えるものです。
 試合の〝間〟から選手の魂を捉える感覚、この感覚は武道の感覚と言えると思います。

 〝一生懸命〟という言葉があります。
 試合で魂の昇華をかけて死力を尽くす選手の姿はまさに〝一生懸命〟であり、その言葉の説明は今更不要に思います。
 〝一懸命〟は由来、〝一懸命〟とも表記されてきました。
 〝一懸命〟とは、武士主体の社会だった中世日本において、武士が与えられた領地を命がけで守るという意味から起こった言葉です。
 そして領地の俸禄で生計を営むことから、転じて、広く必死になって力を尽くすことを示すようになったとされています。
 〝一懸命〟は〝一懸命〟が転じたものです。

 私はしつこくブログで書くように武道とは武士道と思っています。
 武士道は武士の精神の美意識ですが、〝一懸命〟転じて〝一懸命〟は武士道に由来する武道精神と言えるものと思います。

 武士道の〝一懸命〟における〝一〟は領地を意味します。
 武道においては領地といったものは存在しませんが、私は武道においても〝一〟は存在すると思います。
 武道における〝一〟とは、その一つに試合における選手同士が織り成す〝間〟であると思います。
 武士が〝一〟によって生計を営んだように、武道における〝一〟である試合の〝間〟では、選手は魂を昇華させるものであり、武道の〝一〟は〝魂の領地〟と言えるものと思います。

 試合における〝魂の領地〟は試合を重ねることで増えるものであり、武士が領地を増やすことで生計が豊かになったように、試合における〝魂の領地〟の増加は選手の魂、選手の心技体を豊かにさせるものと思います。
 試合の〝間〟が〝魂の領地〟があるゆえに、余計にそこへの他人の割り込みは厳禁に思いますが、試合を選手二人の〝魂の領地〟と感じるか否かは、武道精神への理解を含む〝武道感覚〟といったものの有る無しに関わってくると思います。
 〝武道感覚〟の有無、またその濃淡度は、試合のような武道の実践経験がなければ身につかず、また深くならないものと思います。

 私は、新極真会は武道感覚の色合いの深い空手流派であるとの自負があります。
 その自負の理由の一つは新極真会は多くの試合を経験した武道実践者によって構成されている組織であり、武道実践者の武道感覚が組織運営に反映されているからです。
 セコンドの礼を不要する組織姿勢は、選手の試合の〝間〟を尊重する武道感覚によるものです。
 セコンドの礼を不要とする新極真会であり、その末端の私ですが、セコンドの礼は広く空手界においては一概に不要とすべきものではないとも思っています。
 セコンドの礼を「礼儀正しさ」とする見解にも、それなりの理由はあると思います。

 空手には無数の流派がありますが、その流派の色分けは武道をうたう空手であるならば〝武道感覚〟で別れてくると思います。
 新極真会の〝武道感覚〟は、選手の試合の〝間〟を尊重するような〝武道実践者としての感覚〟です。
 私は新極真会の〝武道感覚〟を矜持に思いますが、組織の末端の指導者として、その矜持を胸に道場生を指導していきたいと思います。
 3.10.2023 記