我々の空手の組手試合の至高の勝ち方は、対戦相手をダウンさせる一本勝ちや技有りを取っての勝利です。
しかし一本勝ちや技有りを取ることは、なかなかできるものでなく、大抵の組手試合は試合内容の判定で勝敗が決まります。
ちなみに、我々の空手の組手試合における試合内容の判定基準 ( 全世界空手道連盟ルール ) は、以下の通りです。
【判定】
a) 一本勝ち・失格がない場合は、主審1名・副審4名のうち3名以上の審判の判断を有効とする。
b)技有りが有る場合は、技有りを優先する。
c) 技有りが無い場合は、ダメージを優先する。
d) ダメージが無い場合は、有効打を含めた手数・足数を優先する。
e) 有効打を含めた手数・足数が同じ場合は、気迫が勝っている方が勝ちである。(最終延長戦でどちらかに決めなくてはならない場合)
f) 「注意」「減点」がある場合は「判定基準」に基づく。
前述のとおり、一本勝ちや技有りをとっての判定勝ちなどは簡単には出来ないため、試合での勝利を目指す道場生への稽古は C のダメージ、D の手数・足数、E の気迫の 3ポイントの基準にフォーカスすることが主体となります。
また至高の勝ち方である一本や技有りを取ることも大半は、上記の 3 つのポイント基準を試合中にコツコツと重ねた延長上にあるために、なおのこと稽古の主体としてフォーカスしなければなりません。
人にはそれぞれ個性があります。
現代は特に個性が尊ばれる世の中ですが、当然、空手の指導者が指導する道場生にも個性があります。
現代の「個性を尊ぶ」という考え方は、「何かの基準に個性を当てはめない」といったことが主流のように思います。
個性が尊ばれる現代において、空手の指導者は、試合での勝利を目指す道場生を、勝利への判定基準という〝基準〟に当てはめる指導を行わければなりませんが、個性尊重が基準軽視となっている現代にあって、試合で勝つための基準へと道場生を当てはめることは、実は難しいことのように個人的に思ったりします。
「それぞれの個性に合わせて基準を柔軟に当てはめれれば良い」といった考え方もあるかと思いますが、全ての個性に柔軟に適応できるほど空手、特に我々の空手の試合での判定基準はあまいものではありません。
我々の空手の試合の判定基準があまくない最大の理由は、前述のように我々の空手の試合の判定基準が対戦相手をダウンさせる事を至高としているからです。
空手の試合では対戦相手は簡単にダウンしないものですが、それゆえにダウンさせる事を基準におく、我々の空手の試合の判定基準は競技者にとって厳しく、難しいものです。
しかしその基準は、競技するならば「相手をダウンさせるか、相手がどんなに強くてもダウンしない」といった強い精神力を心に宿す空手の本質に即するものに思います。
上記の 3 つのポイントからは、以下のように精神力の強さを高めるなどの空手の本質を醸成させる基準が見出されます。
C のダメージ=対戦相手にダメージを与えるほどの〝技の威力〟を有するかの基準。
D の手数・足数=対戦相手を突き・蹴りの数で上回るほどに繰り出す〝体力〟を有するかの基準。
E の気迫=試合への緊張、恐怖などに向き合う〝心の強さ〟を有するかの基準。
上記から見出される〝心・技・体〟は武道として修めるべき、空手の本質を構成する要素です。
修めるべき空手の本質の構成要素の練度を判定基準に盛り込むことから、私は我々の空手の判定基準は普遍的な空手の本質に根ざした基準であると思います。
そして空手の本質に根ざした判定基準であるがゆえに、試合の判定基準に沿った稽古は、試合を目的とした道場生のみならず、それ以外の道場生にも当てはめることができると思います。
「我々の空手の判定基準は普遍的な空手の本質に根ざした基準」と上記しましたが、〝普遍〟の意味は「全体に広く行き渡ること。例外なくすべてのものにあてはまること。」とあります。
また普遍には「時の流れによって左右されない。」といった意味もあると思います。
人を当てはめる基準は時代とともに変わるものです。
それは時代の価値観が変わるためですが、昨今話題になっている校則などは変わりゆく基準、時代の価値観によって変わるべき基準に思います。
しかし我々の空手の試合の判定基準は変わりようがない、そして変わってはならない基準に思います。
それは我々の空手の試合の判定基準が空手の本質に根ざしているからであり、基準が変わってしまえば価値観が変わり、空手の本質が失われるからです。
空手道場は色んな人たちが集う場所であり、それぞれに個性があります。
空手道場はコミュニティの場としてそこに集うすべての人々の個性が尊重されるべき場所ですが、全ての人の尊重を、全ての個性に合わせて尊重するのではなく、普遍的な空手の基準に全ての個性を調和させることで、個々の個性の尊重を確立すべきかと思います。
先日、岸田総理が襲撃されました。
犯人の動機は選挙法への不満と報道されていますが、その動機が本当ならば個性尊重に甘んじた基準意識への薄弱さを私は犯人の精神構造に感じます。
基準意識が薄弱、または持たないものは、理不尽な振る舞いを平然に行うことが出来るように思います。
スシローなど最近、複数起きた飲食店への迷惑行為の犯人たちにも、岸田総理襲撃犯人と同じ精神構造を感じますが、昨今、社会の様々な基準が軽んじられているように思います。
新極真会徳島西南支部では、空手の本質を根幹とする基準を正し、それを稽古に反映させ、空手の基準に道場生を調和させるように導いて行きたいと思います。
4.21.2023 記