空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

歴史のススメ、日本の歴史から学べる武道の心

 先日の徳島新聞に 2023 年度の新入社員を対象とした、理想の上司のイメージに近い有名人アンケートの結果が掲載されていました。
 歴史上の人物では、織田信長が 1 位となっていました。
 私はこのアンケートを見て、今の若い人は織田信長を正にイメージのみで知っており、その実像はあまり知らないように思い、若い人の歴史認識の薄さを感じました。

 〝愚者は経験に学び、智者は歴史に学ぶ〟との言葉があります。
 歴史は人の生き様を示すものであり、特に日本は豊かな歴史を持ち、日本の歴史には日本人の精神が感じられます。
 今の若い人の歴史認識の薄さには、同時に日本人の精神の薄さも感じられ、個人的に日本の行く末への危惧を感じます。

 …などと、偉そうなことを書きながらも、私の歴史認識歴史小説を読み漁ったぐらいで、織田信長の実像なども深く知るものではありません。
 しかし織田信長を「最も上司にしたくない」と語る、歴史小説家、歴史家が多数いることは知っています。
 また歴史小説から伺える織田信長の性格は、織田信長の実際の事歴から実像の性格が反映しているように思いますが、織田信長ほど家臣から恐れられ、また警戒され、そして叛かれた武将は少ないと思います。

 それは織田信長の疑い深い、狷介な性格ためと言われていますが、織田信長への家臣の最大の叛逆事件は本能寺の変です。
 本能寺の変で叛いた明智光秀の他に、織田信長に叛いた家臣は有名なところでは荒木村重松永久秀などがおり、同盟者では浅井長政がいます。
 彼らは織田信長に「いつ粛清されるかもしれない」といった不安から叛いたようですが、織田信長は猜疑心の強さゆえに、決して多くの家臣に慕われた存在では無かったようです。
 織田信長の家臣で一番有名と思われる豊臣秀吉などは、織田信長から猜疑心を持たれないために、出世して得た自分の地位をいずれ譲り渡すように織田信長の息子の一人を養子に迎えて保身を計っています。

 多くの家臣から慕われていたとは言えない織田信長ですが、それは彼の性格のみが原因でなく、時代背景も大きく関与したものと思います。
 織田信長が生きた時代は、言うまでもなく戦国時代ですが、戦国の世は人の欲望がむき出しとなった相克の時代であり、人の裏切りが当たり前の時代でした。
 織田信長の猜疑心は、家臣が欲にかられて「いつ自分を裏切るかもしれない」といった、時代背景が反映したものでもあったようです。
 織田信長本能寺の変でたおれ、豊臣秀吉織田信長の地盤を実力で引き継ぎ天下をおさめ、その豊臣の天下を徳川家康が奪い江戸時代が始まったのは周知のとおりです。
 江戸時代における徳川幕府は、裏切りのような前時代の戦国の気風を無くすべく人心を改めることに努めました。

 前時代の人心刷新の取り組みは、徳川体制が決定的となった大坂夏の陣の後には「元和偃武」をスローガンに展開されました。
 「元和」は大阪夏の陣の後に新たになった年号であり、「偃武」は戦争が無くなったことを意味します。
 平安末期から江戸時代までは、武士と呼ばれる人たちが世の中を動かす主体となりましたが、武士の生き方としての美意識に〝武士道〟があります。
 武士は平安時代に発生し、時代と共に社会的立場が変わっていきましたが、武士道も時代背景を受けて変遷していきました。

 江戸時代の武士道などは、徳川幕府の政策もあって儒教の影響を受けたそうです。
 戦国時代の武士道などは、個人の能力を重んじるもので、そのためには裏切りなどを肯定する一面があったとされます。
 「元和偃武」の江戸時代の武士道は当然裏切りなどは否定され、悪い捉え方をすれば武士という身分で個人の自由な行動を束縛するような、良い捉え方をすれば折り目の正しさなどがもっとうとされました。
 そのため正座の仕方などの武士の作法としての礼法も整えられましたが、「元和偃武」「折り目正しい」武士道であっても「いざ戦いが起これば」といった気概は失われなかったようです。

 正座は左足から膝を折って座り、立つ時は右足の膝から立てるものとされています。
 座るのにどちらの膝から折ったり、立てたりしても良さそうなものですが、これは座った状態から刀を抜く場合、右利きの人は右足の膝を立てて刀を鞘から抜くことに由来するものです。
 正座の礼法には、座る時に、または座っている時になど〝いつ、いかなる時に敵に襲われても対処できるように〟との、武士本来の気概を残す、武士の精神が反映されています。
 平和な時代にあっても武士道は「いざ戦いが起これば」といった、有事への心構えを練ることを忘れませんでした。
 260 年間という世界史でも稀な平和な時代を過ごした江戸時代ですが、幕末、日本は他国を侵略することがイデオロギーであった列強の帝国主義から独立を何とか守り、明治時代を切り開きました。

 明治時代は「文明開化」などと言われ、華やかな時代に思われがちですが、庶民への税は重く、庶民にとっては重苦しい時代であったと言われています。
 重苦しい時代となったのは、歴史の教科書で習った「富国強兵」の言葉に表されるように列強とのせめぎ合いのためですが、そのせめぎ合いに一つの結果が出たのが日清・日露戦争での勝利でした。
 日清・日露戦争の勝利は明治時代の栄光ですが、その栄光は庶民が重い税に耐えてもたらされたものであり、後世から見れば同時代の庶民の生活の重苦しさは明治の栄光のために影が薄められています。

 明治時代には武士という身分は廃止されていましたが、明治時代を主導したの江戸時代に生まれた武士が多く、明治時代にも武士道は息づいていました。
 明治時代を担った人のは多くは江戸時代に生まれた武士ですが、大正時代、昭和時代を担ったのは明治になって生まれた人たちです。

 昭和は、第二次大戦における敗戦を迎えます。
 敗戦には様々な理由があり、私などの知識の薄いものが語るのもおこがましいですが、その理由の一つには江戸時代までと、それ以後の日本人の精神の違いに一因があるように私は思います。
 敗戦後の日本には多くの苦難がのしかかりましたが、その苦難を押しのけ日本は見事に復興しました。
 戦後復興には、日本人の江戸時代までの精神が蘇ったように思います。
 戦後復興に江戸時代までの日本人の精神が蘇った背景には、私は明治から昭和の敗戦までの小学校教育で行われた〝修身〟の授業があるように思います。

 戦後復興を成し遂げた人たちは明治末期、大正、昭和初期に生まれ修身を学んだ人たちです。
 修身は、戦後の道徳の授業のようなものであったと言われています。
 私は修身をよく知りませんが、修身と道徳では教えられた内容が違い、修身には道徳で取り上げられていないことが多々あるそうです。
 源義経鵯越の逆落としに参加した畠山重忠が急な崖を駆け下りるのに馬をいたわり、馬を担いで崖を下った歴史エピソードなどはその一つです。

 修身には武士道が息づいていたように思いますが、修身は明治末期、大正、昭和初期の日本人全体の精神を構成する根幹の一つになったと思います。
 武士が消え、修身がなくなり、武士道、修身を派生させた歴史への認識も薄くなっている現代、日本人の精神の行く末に私は危惧を感じます。
 今を生きる私たちは、歴史的に多くの困難を乗り越えてきた日本人の精神を大切にして、それを受け継がなければならないと思います。

 日本人の精神の根底の一つは武士道です。
 ブログでよく書くことですが、私は武道は武士道と思っています。

 武道における武士道は、空手においては例えばスパーリングで激しく攻防していても、相手が効いたり、泣いてしまえばそこからは強く攻めないなど、修身に伝えられた武士・畠山重忠の優しさに通じるものです。
 新極真会徳島西南支部では、昔からの日本人の精神をこれからの社会に残すべく、武道としての空手道を指導していきたいと思います。

 < ご案内・道場生、保護者向け大会告知 >
 7/2 ㈰…全中国錬成大会 岡山市にて 支部内締切 <5/24 ㈬ >
 7/16 ㈰…大阪府大会 羽曳野市にて 支部内締切 <5/29 ㈪ >
 7/22 ㈯、23 ㈰…ドリームフェスティバル 2023 全国大会 東京都にて オンライン申込み <5/8 ㈪~5/17 ㈬ >
 8/20 ㈰…全九州大会 福岡市にて オンライン申込み <5/8 ㈪~5/29 ㈪ >
 各大会の出場希望者は指導員まで申し出てください。
 5.12.2023 記