空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

空手を文化としての身に付けることのススメ、文化の条件である〝普遍〟について

 文化である条件は〝普遍〟であることだそうです。
 〝普遍〟とは「広く行き渡ること。特に、すべての物に共通に存すること。」を意味します。

 空手には様々な流派がありますが、世界の 190 ヶ国以上に広がると言われる総体的な空手人口は 1 億人以上とする統計もあり、空手は世界に広く行き渡る、まさに〝文化〟と言えます。

 空手は流派によって競技ルールなどの違いがあり、その違いが文化の内の色合いとなっていますが、その色合いは空手の文化としての色彩にもなっています。
 我々の空手、空手の流派の一つである新極真空手は、世界 103 ヶ国に支部・道場が存在し、流派単独の会員数で 7 万人を擁します。
 我々の流派〝新極真空手〟は空手文化の中でも濃厚な文化的色彩を放ちますが、人は何かしらの文化に属したり、接することで人生の豊かさを得ることができます。

 私は元来、好奇心旺盛な性格ではなく、海外旅行などは好んで行きたいと思わない性質ですが、それでも新極真空手という文化に属することで大会参加、指導で何度かの新極真会の海外支部のある国への渡航を経験しました。
 私のような人間でも海外渡航の経験は、終生の忘れがたい良き思い出となりました。
 特に共産圏、イスラム圏の国への渡航は空手をしていなければ、個人的には絶対にしないような経験であり、自分の生まれ育った生活文化とは、異質の文化に触れたことは人生の深みになったような感慨を覚えました。

 文化は〝属するもの〟〝接するもの〟そして〝身に付けるもの〟と思いますが、文化を〝身に付けること〟は、その文化の本質を身に付けることであり、文化を通して得る人生の豊かさを、文化に属する、接する以上に、一層豊富にするものと思います。

 〝文化の本質を身に付ける〟文化の本質の一つは、前述のとおり文化の条件である〝普遍〟と思いますが、文化の本質を身に付けることの一つは、文化の普遍性を身に付けることだと個人的に思います。

 文化の条件である〝普遍〟は、第一義的には「地域的、空間的に広く行き渡ること」と思いますが、〝普遍〟は個人体にも照らし合わせることができ、個人の〝普遍〟を考えた時、その「広く行き渡ること」とは、個人の人生において「広く行き渡ること」になると思います。

 新極真徳島西南支部では、20 代から武道を始め 70 代の現在、稽古でのスパーリングを欠かさない道場生の方がいます。


www.youtube.com

 私は空手の本質は、組手にあると思います。
 稽古としての組手であるスパーリングを 70 代になっても長年続けることは、空手の本質を文化の本質として〝人生の普遍〟とすることであり、空手という文化に単に属したり、接するだけでなく、空手の文化そのものを身に付けることになると思います。
 そしてそこから得る人生の豊かさは、健康だったり、後進からの尊敬だったりすると思います。

 また文化の〝普遍〟の「広く行き渡ること」は、個人の人生のみならず、本質を様々なスタイルに行き渡せることも値することだと思います。

 空手は人種、宗教といった様々なスタイルを持つ人々に行き渡り、それゆえ文化たる矜持を得ていますが、空手は空手文化の一つとして競技を有します。
 空手の競技はルールによって様々な競技スタイルが存在しますが、自身が稽古する空手の本質である組手で生成される個人の心・技・体を、1コの競技ルールのみの適応に止めることなく、空手のみならず他の格闘技の競技ルールにも適応させることも〝普遍〟に値するものと思います。


www.youtube.com

 私は稽古として、新極真会の競技スタイルとは違うルール・スタイルのスパーリングにも取り組んでいます。
 その目的は単なる流行りを追った興味本意ではなく、組手の幅を広げるためであり、その幅の広がりは文化としての〝普遍〟を意図しています。
 そしてそこから得る人生の豊かさは、空手の本質である組手の〝面白さ〟を得ることだと個人的に思います。

 70 代の方を道場生の筆頭とする新極真会徳島西南支部、道場生には文化としての空手を、空手の本質に長く、幅広く取り組むことで、普遍的に稽古し、人生の豊かさを得て欲しいと思います。
 1.30.2024 記