空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

躾 ( しつけ ) のススメ、躾から得る心身の自由

 一昨日の日曜日 (12/10) は四国・岡山合同稽古でした。
 毎回、四国・岡山合同稽古を企画、準備してくださる三好師範、野本師範代、今回もありがとうございました。

 今年の四国・岡山合同稽古は、今回が最後でしたが、来年もよろしくお願いいたします。

 また、参加した道場生の皆んなも、お疲れ様でした。
 皆んな、よく頑張りました。

 来年も、頑張って参加しましょう !!
 保護者の皆様も、お疲れ様でした。

 さて、空手の稽古の動きは、重心を前足に置く前屈立ち、重心を後ろに置く後屈立ちなど、日常動作ではあまり行わない動作が多々あります。
 日常動作ではあまり行わないゆえに、空手の稽古動作は非常にやりづらく感じる時があります。

 前屈立ちは前足の膝を曲げて、後ろ足の膝を伸ばしますが、初心者は前足の膝は曲がっていても、後ろ足の膝が伸びきっていない人がよく見られます。

 空手の前屈立ちでは、後ろ足の膝が伸び切らなければ前足への重心の乗りが悪く、前足重心が要点である前屈立ちとしては不十分となります。
 前屈立ちは立ち方がきまる瞬間に〝前足の膝を曲げて、後ろ足の膝を伸ばす〟といったことが身体動作として肝要となりますが、初心者の前屈立ちの後ろ足がなかなか伸び切らないように、頭で動作の要所が理解できていても実際にやってみると、なかなか難しく、その難しさに動作としてのやりづらさを感じます。

 「なぜ、空手の稽古ではやりづらい動作をわざわざ行うのか ?」といった疑問を、空手経験者は持ったことがある人も多いと思いますが、私がそういった疑問を質問された場合「組手での、合理的な技術となる動作を身に付けるため」と答えます。
 例えば両足に均等に体重を乗せて相手と相対している時、前蹴りを仕掛けられたとして、仕掛けられた瞬時に後ろ足に重心を乗せる後屈立ちになると、相手の前蹴りを躱すことができます。

 上記のような具合に空手の稽古でのやりづらい動作は、組手に必要な動作を身体に〝躾 ( しつ ) ける〟一面があります。
 上記のような説明でやりづらい動作の必要性を理解できても、やはり「やりづらいものは、やりづらい」と感じて、そのやりづらさが先立つと押し付けのように感じてしまいます。
 押し付けと感じるやりづらさは、身体の動きの自由を奪う不自由さにも感じてしまいます。
 そして、その不自由さは、やりづらさは身体の機能性を生み出す躾であるところなのに〝躾=不自由〟と、意義が変質してしまいます。

 人は自由を求めるものです。
 空手の指導していて、前屈立ちなどで後ろ足の膝を伸ばすように何回も指導しても改まらない人には、指導に聞く耳を持たないような悪気はなくとも「無意識に動作の不自由さを拒絶し、自由に稽古で動いているのかな ?」と思ったりします。

 しかし空手の稽古では、前屈立ちのような基本的な稽古以上に、不自由な動きが際立ち、その不自由な動きが空手の稽古の本質から稽古の意義を遠ざける稽古があります。
 それはスパーリング、そして組手です。

 初心者のスパーリング ( 自由攻防での組手試合形式の練習 ) は、相手の攻撃を上手くディフェンス ( 防御 ) できず、自分の攻撃を相手に上手く当てることができません。
 ティフェンス、オフェンス ( 攻撃 ) がままならないものですが、そのままならない様は〝不自由さ〟そのものです。
 逆に上級者は、スパーリングにおける瞬時の展開のその都度に、攻防においての合理的な動きが見られ、その動きの合理性は〝自由〟と形容できるものです。

 私は空手の稽古において求める自由は、スパーリング、そして組手での動きに求めるべきに思っています。
 空手の稽古における不自由な動きとは、先述の通り〝組手での合理的な技術となる動作を身に付けるため〟に行うものです。
 そのためには不自由に感じても、不自由な動きが持つ組手における合理的性を、身体に躾なければなりません。

 道場生には稽古動作のやりづらさを単に不自由とせずに、スパーリング、そして組手で自由に動くのため身体の躾として稽古に励んでもらいたいと思います。
 そして空手では「不自由に思える身体への躾から、本当に必要で大切な自由が得られる」と、認識して欲しいと思います。
 また空手の指導者として〝躾から自由が生じる〟といったことは〝躾の重要性〟として、とくに子ども達への空手指導の理念の骨子にしていきたいと思います。

 先日、以下の事件が報道されていました。

 容疑者の「いい写真を撮りたかった」との動機の根底には、自由な振る舞いとしての意識があるように思います。
 容疑者としては自分の好きなことで、自由に振る舞っただけかもしれませんが、結果としてはダイヤを乱し、たくさんの人に迷惑をかける結果になりました。
 容疑者は 20 代前半の若者であるそうですが、勝手な想像ですが、容疑者の成長過程には、物心がついてからは、人前で騒いだりしないような〝躾〟が希薄だったように思います。

 成長過程で〝躾〟が行き届いていれば、自分の自由を履き違えたりしないと思います。
 〝躾〟は、上記の空手の例のように、自由の意義を深める作用があります。
 〝躾=自由〟との空手における躾の構図を社会に提唱すべく、身体の躾が心の躾となる空手の稽古を、大切にしていきたたいと思います。

 12.12.2023 記

空手の試合を楽しむことのススメ、精神的本質が違うスポーツと武道の精神的共有域

 早いもので、もう 12 月。
 2023 年も残り 1 ヶ月を切りました。
 今年は新型コロナが 5 類に移行し、空手に関する様々な事が、ほぼコロナ前に戻りました。
 大会も、その一つですが、今年はたくさんの大会に新極真会徳島西南支部の道場生が出場しました。

 大会ごとに道場生の試合結果に一喜一憂しましたが、先月の和歌山県大会では、同大会の最後の試合に道場生が登壇しました。

 大会における最後の試合は、その大会を締めくくりとしての意味合いがある場合があります。
 和歌山県大会における最後の試合も、大会の締めくくりとしての意味合いがありましたが、登壇した道場生は幸運にも勝利しました。


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 その試合、私は審判を努めていたので、道場生が出稽古でもお世話になっている新極真会徳島北東あわじ支部の前川支部長にセコンドをお願いし、応援サイドには会場にいた全ての道場生、保護者の方々が居並び、道場生に声援を送り、また見守っていました。
 大会の締めくくりとしての試合の勝利は格別で、応援サイドに居た前川支部長、道場生、保護者の方々も我事のように道場生の勝利を喜んでくれました。
 勝利した当人も含めて、勝利に沸く新極真会徳島西南支部関係者、私はその光景を見ながら「スポーツの楽しさの一つとは、こういったものなんだろう。」と、ふとっ、思ったりしました。

 セコンド、応援してくれた道場生、保護者などの方々の歓喜には、懸命に戦い勝利した道場生への感情移入があったと思います。

 競技をする選手の懸命な姿、それを観るものの感情移入は、正しくスポーツの醍醐味であると思います。
 感情移入を改めて調べてみると「自己の感情を、対象の中に投射して、その対象と自己との融合する事実を意識すること。」とあります。
 難しい解釈ですが、競技選手への感情移入は、要は〝選手への思い入れ〟と思います。
 空手、特に実際に突き・蹴りを実際に当てる我々の空手の競技はハードです。
 ハードがゆえに、我々の空手競技で生じる、観るものの感情移入には、多大な感情量が沸き起こると思います。
 そして、その多大な感情量は〝空手競技を観る楽しさ〟になるものです。

 選手への感情移入は、選手の競技での戦いざまから、または選手の競技にかける熱意などから生じるものです。
 支部関係者はもちろんのこと、それ以外の空手の試合を観る人たちが、感情移入できる選手の育成に努めたい、と指導者としては思うところです。

 「感情移入はスポーツの醍醐味」「感情移入できる選手の育成に努めたい」と書きましたが、私は元来、スポーツと武道は精神的本質が違うものと思っています。
 スポーツと武道の精神的本質の違いは、ブログでよく書くところで、今回はしつこく、その違いの詳細を書きませんが、スポーツの精神的本質である「楽しむ」ことは、私は武道における精神的本質においては、無いか、またはあっても希薄なものと思います。
 ただスポーツと武道では競技を通して、その精神性で共通する概念があります。

 それは〝アスリート〟という概念です。
 現代ではスポーツ、武道ともに競技が盛んです。

 〝アスリート〟とは「スポーツや、他の形式の身体運動に習熟している人」といった概念であり、その概念には〝心身の高まった、優れた人〟といった意味合いも含まれます。
 スポーツに習熟する人は、アスリートとして、時にスポーツの精神的本質である「楽しむ」ことから、かけ離れる人がいます。
 スポーツ・アスリートは競技での勝利を目指して「楽しむ」ことを捨て去り、トレーニングで自分を追い込み、競技に自分の全身全霊をかけます。
 そのアスリートとしてのストイックさが、スポーツ競技を観るものの感情移入を一層高めるものになりますが、そのストイックさは武道の精神的本質に基礎成分として含まれるものです。
 武道は競技者であらずとも、心身を高めるアスリート足るべきを目指す〝道 ( みち )〟であり、武道競技に引退にあっても〝武道〟そのものに引退はありません。
 武道は〝道〟ゆえに、スポーツとは違った精神的本質を有するものです。
 精神的本質の違うスポーツと武道ですが、両者は競技において精神的本質を超え、アスリートとして共有する精神的な領域があります。

 それは〝観るものを感動させ、楽しませる〟ことのようなスポーツの精神的本質、競技者として〝自らの心身を高め、自らの充足を得る〟ことのような武道の精神的本質が交錯する領域であり、その共有域は競技、試合の場にあります。
 私はスポーツ、武道の共有域を、武道としての空手指導者を任ずるものとして、追求していきたいと思います。

 そのためには試合に挑む道場生を、観る人が、感情移入できる選手へと育成することが重要なことの一つになります。

 空手を観る人の感情移入は、勇敢な、または正々堂々した試合ぶりなどの、武道としての精神性から生じるものです。
 精神性のともなった武道としての空手の指導を、常に心がけたいと思います。

 さて、今年の試合も 12/29 に行われる全四国錬成大会のみとなりました。
 来年は、2/12( 火・祝 ) に行われる香川県大会が最初となります。

 両大会に出場する道場生の皆さん、皆さん自身が皆さんの成長へと繋がるように、そして保護者などの見守り、応援をしてくれるの方々が楽しめる大会になるように頑張りましょう !!
 12.5.2023 記

男は強く、男らしくあることのススメ、「男は強くは、有害な思想」との主張に対する疑問

 先週の土曜日 (11/25) は、MIMA イルミネーションというイベントでの演武会でした。

美馬イルミネーション演武会11.25.2023 - YouTube

 出演してくれた道場生の皆んな、ありがとうございました。
 皆んな、よく頑張ってくれました。

 また、見にきてくれた道場生の皆んな、保護者の皆様もありがとうございました。

 次の演武会は、コロナ前は毎年ほとんど参加していた鴨島公民館・文化祭 <2024 年 2 月 23 日 ( 金・祝 )> での演武を予定しています。
 コロナ禍でここ数年、出演の機会がありませんでした。
 出演は希望団体の抽選で決まり、まだ確定ではありませんが、予定として演武の内容を今から考えていきたいと思います。
 次の演武場所は、立派なホールでの演武です。
 演武もホールでの演武に見合ったものにアレンジしようと思いますが、今回出演してくれた皆んな、都合が合えばまた参加してください。

 また今回、参加しなかった道場生の皆さんも都合が合えば、ぜひ参加してください。

 さて、先々週の 11/19 は国際男性デーであったそうです。
 その日の前後で色んなメディアで国際男性デーに関するコラムなどを目にしましたが、その中の一つに〝「男は強く」有害な思想〟と主張するコラムを見かけました。
 「男は強く」=「男らしさ」であり、「男らしさ」に捉われることが夫婦間、恋人感で〝女性をリードしなければならい〟といった男性の意識を生み、そういった意識が〝女性を従属的な存在〟と捉え、男性によるドメ スティック・バイオレンスを引き起こす、といったことが、そのコラムでは書かれていました。

 私は武道としての空手を指導するものですが、武道としての空手は「男は強く」=「男らしさ」といった思想を持つ一面があり、私もその思想の影響を色濃く受けて日々の空手指導を行っています。
 ゆえに〝「男は強く」有害な思想〟との主張には、疑問を覚えます。
 「男は強く」=「男らしさ」→〝女性をリードしなければならない〟といった思想からの発想の展開は、当然として起こり得るものと思います。
 しかし〝女性をリードしなければならない〟といった発想意識が、〝女性を従属的な存在〟との認識になることには、なぜ「なぜ、そうなるのか ?」と、はなはだ疑問に思います。

 我々の空手は〝強さは優しさ〟〝優しさは強さ〟と説きます。  客観的に、力などの身体的特徴としては、女性は男性より弱いものです。
 我々の空手の観念としては、単純に力の弱い女性に対して、男性は優しくなければならないものです。

 我々の空手では男女でスパーリング ( 自由に技を攻防させる、試合形式の稽古 ) を行いますが、通常、男性が力に任せて女性を圧倒したりすることはご法度とされています。
 我々の空手の観念からすれば「男は強く」という思想からの〝女性をリードしなければならい〟といった意識は、〝女性を守る〟といった意識となるものです。
 〝女性へのリード〟が、〝女性を従属させる〟との意識転換は、我々の空手の観念からすれば、全く不可解に思います。
 私は認知能力についてブログでよく書きますが、認知能力は、〝見る力〟〝聞く力〟〝想像する力〟などとされています。

 強さを単純に〝力の弱い人を守る〟とイメージぜずに、〝弱い人を従属させる〟こととイメージすることは、〝想像する力〟の認知能力の乏しさに思います。

 国際男性デーでは「〝男なら弱音を吐くな、男なら泣くな〟は、もうやめよう。」と唱えられていました。

 また私が疑問を覚えたコラムでも「男性だってつらければ弱音を吐いていい。」と書かれていました。
 確かに「男だから弱音を吐いてはならない、泣いてはならない。」と決めつけるのは暴論に思います。
 同コラムでは「男らしさのよろいを脱ぎ捨ててれば、自分らしく幸せに生きられる」とも書かれていました。

 「男らしさ」における〝らしさ〟について改めて思うに、〝らしさ〟とは一般的に自分のあるべき、ありたい、などの自分の思い描くイメージの一種に思います。
 我々の空手のように〝強さは優しさ〟〝優しさは強さ〟とのイメージを持ち、「男は強く」=「男らしさ」と思想として思うことは、自分のあるべきイメージを自己の外に求めることだと思います。

 それに対し〝自分らしさ〟を求めることは、自分のありたいイメージを自己の内に求めることだと思います。
 自己の内に自分のありたいイメージを求める事を否定する訳ではありませんが、そういった人が、もし「強さは、弱い人を従属させる」ことなどの乏しい認知能力の持ち主だった場合、それこそドメスティック・バ イオレンスようなことの引き金になるように私は思います。
 私は〝らしさ〟は全てがそうでなくても、大半は自己の外にイメージを求めるべきだと思います。
 そうすることによって、イメージの膨らみとしての認知能力が高まり、何事においても自分を高めようとする向上意欲の根源にもなったりすると思います。

 我々の空手のみでなく、日本の社会は中世以来、〝強さは優しさ〟〝優しさは強さ〟としてのイメージが流布されてきました。
 童話で鬼ヶ島へ鬼を退治しに行ったは桃太郎は、明治時代の唱歌で「気は優しくて、力持ち」と歌われています。
 現代の漫画やアニメはそういった文化が反映されていますが、ドラゴンポールの孫悟空は最強でありながら奥さんには頭が上がりません。

 〝「男は強く」有害な思想〟との主張には、認知能力の乏しさとともに、自国の文化への認識の薄さを感じます。
 〝「男は強く」有害な思想〟との主張の背景には、〝自分らしさ〟を求めるとのことから、今、さかんに唱えられている〝多様な社会〟の思想があるように思います。

 「日本は閉鎖的で、多様な社会としては遅れている。」と、国際社会で言われています。
 しかし、上記のように指摘する国々の多くが一神教であるのに対して、日本は大昔から〝八百万の神々〟を認めてきました。
 八百万と号する様々な神々の存在を認め、その文化が培われてきた現代ではクリスマスを祝えば、正月も祝います。
 また七五三を祝えば、ハロウインも楽しみます。  上記のようなことから、「日本ほど、昔から多様性をもった国はない。」と、以前読んだ本では書かれていました。

 「日本は多様性で遅れている。」と指摘する国々の歴史を見ると、人種差別や異教徒への弾圧の影が付きまといます。
 その影は今も付きまとい、今、中東で行われている病院を攻撃するような戦争の背後には、それらの国々の影がちらつきます。
 個人的には、自国の歴史を知らず、他国の指摘を真に受けて、自国の文化認識が薄いように感じる主張には、民度の低下を感じます。

 私は自分のあるべきイメージとして〝空手の先生らしく〟あろうと思います。
 私のイメージの空手の先生は〝強くて、優しい〟です。
 我々の空手の思想である、優しさの根底は強さであるとして、自身の練磨をたゆまぬように心がけて行きたいと思います。


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 < ご案内 >
 次の金曜日 (12/1) の徳島市加茂道場の稽古は全クラスお休みです。
 関係者の皆様、よろしくお願い致します。

 11.28.2023 記

武道精神にのとって試合に挑むことのススメ、虚偽の反則アピールをしない武道精神

一昨日の日曜日 (11/19) は、徳島県吉野川市で第 17 回全四国格闘技空手拳法選手権大会でした。

 大会を主催された総円心館・森館長、総円心館スタッフの皆様、参加させていただきありがとうございました。
 新極真会徳島西南支部からは 27 名がエントリー。

 イロハちゃん、タイト君が優勝、アヤネちゃん、ユアちゃん、コタロウ君、ソウシロウ君、エイタ君が 2 位、ユイト君、カナト君、アルト君が 3 位でした。

 勝った人も、負けた人も皆んなよく頑張りした !!

 空手の試合は出場するだけでも大変ですが、出場するごとに、そして試合への挑戦を続けることで少しずつ強くなっていきます。
 今回頑張った皆んな、次の大会を目指して、また頑張りましょう。
 保護者の皆様も、お疲れ様でした。

 また先週の金曜日 (11/17)~日曜日までは、新極真会 2023 ユースジャパン強化合宿が山梨県で行われました。

 ご指導いただいた師範、コーチの皆様、合宿を運営してくださった新極真会総本部事務局の皆様、誠にありがとうございました。

 いつも同行している新極真会徳島北東あわじ支部の皆さん、お疲れ様でした。

 そして今回も引率していただいた新極真会徳島北東あわじ支部の将口先生、お世話になりありがとうございました。

 新極真会徳島西南支部からは 7 名が参加。
今回も例年通りのハードな合宿となり、一昨日の出迎えでは早速、ひどい筋肉痛になっている道場生もいましたが、合宿を終えた表情は皆んな明るく、有意義な合宿だった事が帰りの表情から伺えました。

 参加した皆んな、よく頑張りました !!
 合宿で学んだことを、これからに活かしていきましょう。
 合宿にお子さんを送り出していただいた保護者様の皆様も、新極真会 2023 ユースジャパン強化合宿にご理解を賜りありがとうございました。

 さて、話は変わりますが、我々の全世界空手道連盟の組手の試合規約には、以下の規約が示されています。

 〝反則攻撃を受けた選手が、その攻撃に起因する自然な反応の行動とは異質の、反則を指摘・強調する行為(アピール行為)をしてはならない。このアピール行為が認定された場合は、当該選手に注意 1 が与えられる場合がある。〟

 上記の規約のアピール行為は、虚偽として注意 1 が与えられます。
 試合中に起きる反則では、例えば反則攻撃である喉への攻撃を受けた場合など、痛みに耐えかねるため、とっさに喉を抑えるなどの、反則を受けたがための自然な反応が必然的に起こるものです。

 私は新極真会の大会では、審判業務に従事するものです。
 我々審判員は試合中に起こる反則への反応を見極めなければなりませんが、その反応が虚偽がどうかの見極めは、審判員として不適格かもしれませんが、正直なところ個人的には困難に感じています。
 困難というよりは〝ピンと来ない〟といった方が正確ですが、その理由は「そもそも反則への虚偽のアピールなどは、空手の選手としてあろうものが、するはずはない。」といったことが頭にあるからです。
 そのため胸部上部への突きと見えた被弾でも、喉を抑えた場合「喉に入ったようには見えなくても、見えづらい被弾の一瞬の角度で突きが喉に流れて当たり、それから胸に被弾したのだろう。」などと判断し、「選手は虚偽のアピールなどしない」との観念から、喉を抑えた行為を突きを放った選手の反則とみなす場合があります。

 私は長年の選手経験を経て、現在、審判員を努めています。
 審判においては、選手時代の自身の経験を元にジャッジしています。
 例えば上段回し蹴りにおいては、セーフティールールではクリーンヒットの場合、技有りとなります。
 クリーンヒットであるかどうかの判断は「セーフティールールで使用されているヘッドガードがなかった場合に被弾したとして、ダメージがあるかどうか ?」などと自らの試合経験から鑑みて判断しています。

 自身の選手時代、私は反則への虚偽のアピールなどは、全く頭にありませんでした。
 虚偽どころか、反則である顔面殴打を受けてもダメージがなければ、または軽微であればそのまま試合を続行し、少々の相手の反則などは気にせずに試合をしていました。

 少々の相手の反則などは気にせず、虚偽の反則のアピールなどは頭の片隅にもおかず試合をしていたのは私だけでなく、最近以前のほとんどの選手がそうだった思います。
 しかし「虚偽のアピール」と言われれば、そう疑いたくなる試合をする選手が最近の大会では散見されます。
 その疑いも自分の選手経験に照らし合わせたものから生じますが、顔面殴打を受け相当なダメージを負ったように見えても、相手選手に反則が宣告されるとすぐに「あのような深いダメージを受けて、よくあんなに元気に戦えるな ?」と思うような選手も見受けられます。

 相手選手が反則を取られることは、判定では自分にとって有利に働く場合があります。
 そのため反則があった場合、軽微であっても反則は反則として正し、主張することは、正当なうえに有利な試合展開の流れを作る、試合に勝つための一つのテクニックと言えるものかもしれません。

 正当な試合展開を求めることは許されると思いますが、虚偽のアピールによって有利な試合展開を作ることは、当然ながら許されるものではありません。
 虚偽のアピールは、有利な試合展開を作るための、行き過ぎた試合テクニックを追求することから生じるように思います。
 私は試合展開は相手の反則に乗ずるよりも、自分の心技体でその流れを自分有利とするよう懸命に戦い、そして判定は、よほどのジャッジミスがない限り、審判に委ね、選手、そしてセコンドは口を出すべきではないと思います。
 私のような考えは、試合テクニックをあくまでも追求する人たちとは相容れず、時代錯誤なのかもしれません。

 しかし時代錯誤ながらも、一つだけ主張したいことがあります。
 それは従来の我々の空手の試合では、試合に勝つだけのテクニックを追求する選手など、あまりいなかったということです。

 前述したように少々顔を殴られても、ものともせずに試合を続けることが、我々の空手の選手としては美学とされていました。
 あくまでも試合に勝つためのテクニックを追求する人たちから見れば、そういった美学は愚かしいものかもしれません。
 また試合においては、どんな軽微な反則でも、反則は反則として裁定されることがフェアな試合です。
 しかし、少々の相手の反則は気にしないといった美学は、正々堂々に由来する武道精神です。
 武道としての空手の試合は、勝利の追求を武道精神に正して追求すへぎに思います。

 テクニック ( 技術 ) には、「科学を応用して自然を改変・加工して役立てる技」という意味もあるそうです。
 武道における〝正々堂々〟は自然な武道精神です。

 武道精神に、自然な武道精神を改変するテクニックは不要に思います。
 最近、イヤホンをヘッドガードで分からないように装着して試合をする選手がいると耳にしました。
 セコンドの指示を受け取りやすくするための一つの試合テクニックでしょうが、我々の全世界空手道連盟ルールでは金属類を装着しての試合は禁止されています。
 金属類の装着が禁止さているのは安全性のためですが、イヤホンを装着していて耳に強打を被弾すれば重大な怪我に繋がる場合があります。

 試合テクニックは、その前提として〝ルールを守る〟という、これも当たり前の武道精神のうえに追求すべきに思います。
 新極真会徳島西南支部では、武道精神にのとって試合に挑む道場生の育成を目指して行きたいと思います。

 < お知らせ >
 次の木曜日 (11/23) は祝日のため美馬道場はお休みです。

 次の土曜日 (11/25) の鴨島道場、美馬道場の稽古は以下のとおりの時間変更です。
 鴨島道場…10 時~11 時 30 分
< 少年部・一般部合同、選手クラス、居残りクラスは休講 >
 美馬道場…14 時~15 時 15 分

 また次の土曜日は MIMA イルミネーションという美馬町のイベントで演武を行います。

 17 時から演武を行いますが、ご都合の良い方はご観覧にお越しください。
 11.21.2023 記

 嫌な思いをしても体育や運動に取り組むことのススメ、自分の嫌な気持ちを人への思いやりへと昇華させる

 一昨日の日曜日 (11/12) は和歌山県大会でした。

 大会を主催された新極真会和歌山支部・黒岡師範、和歌山支部スタッフの皆様、道場生ともども参加させていただきありがとうございました。

 新極真会徳島西南支部からは 10 名が参加。

 型でカイト君が優勝、組手でミツキちゃん、トキ君が優勝、イッサ君が準優勝、ウタ君が 3 位でした。

 入賞できた人も、惜しくもできなかった人も、皆んなよく頑張りました。

 今年の大会も、残すところ 12/29 に行われる四国錬成大会だけになりましたが、参加できる人は次の大会を目指して頑張りましょう !!
 保護者の皆様も、お疲れ様でした。

 さて先日、以下の記事が徳島新聞で掲載されていました。

 記事で取り上げられていた坂本先生の考えが、以前のブログで書いた運動についての私の考えと同じだったので大変興味深く思いました。
 記事の中では「教育である『体育』がスポーツ化する風潮に懸念を示す。」 「『運動=スポーツ』という幻想から解放され、からだの持つ可能性を伝えるのが体育であるべきです。」との坂本先生の考え方が書かれていますが、私も以前のブログで「運動=スポーツ」ではないと書きました。
 また以前のブログで運動のスポーツ化は、運動がスポーツの持つ競争指向に染まることになり、運動の競争化は運動の得意な人、不得意な人を生み出し、運動の不得意な人の運動離れを引き起こす、といったことも書きました。
 坂本先生も似たように「スポーツは競争ありきで、技能の優劣を浮き彫りにする『残酷な』性質を備えている」と、記事の中で述べられています。

 坂本先生は、本来の体育のあるべき視点から〝からだの持つ可能性〟を運動として〝その可能性に優劣はない〟といった考えを示されています。
 私は運動の根底は立ったり、歩いたりする日常生活における運動にあるとし、運動の根底を意識して運動に積極的に取り組むことで人生は良くなるもの、と以前のブログで書きました。

 運動と競争指向のスポーツとは、切り離して考えるべきだと思います。
 しかし運動、特に学校で行われる体育においては、どうしても競争指向のスポーツの影響を受け、苦手意識を持つ人を生み出してしまいます。
 以前のブログで、肥満児だった私は長距離走が苦手で、校内マラソンなどではいつも最下位グルーブ、ほとんどの人たちがゴールをしている中、先にゴールした人たちから「頑張れ !!」などと声援を受けてゴールすることが恥ずかしく、情けなく思い、長距離走が苦手で、嫌いだった、と書きました。

 記事の中で「『跳び箱を飛ばなきゃダメ ?』『なんで踊らなきゃいけないの ?』といった疑問に納得のゆく回答を示すのは存外難しい。」「そして不得手な人が皆の前でやらされる時に感じる『公開処刑』を授業から完全になくすことはできない。」と書かれていますが、記事に書かれている体育の持つ、私が思うに体育の不条理は、自分の経験も相まって痛切に感じます。
 〝疑問に納得のゆく回答を示すのは存外難しい〟とされる不条理を抱えていても、それでも体育、そして運動は学校や社会から失くすべきではありません。
 体育や運動に不条理を感じる人がいても、それを学校や社会から失くしてはならない理由を、スポーツの競争指向から切り離して体育、運動の指導者はもっと示すべきかと思います。

 空手も広義においては運動ですが、空手指導者の私は上記の理由を以前のブログで〝武道精神を身に付けるため〟としました。
 苦手なことに取り組み、克服する精神は〝克己の精神〟であり、それは我々の空手の道場訓にも示されている武道の精神です。

 武道を志すならば、〝克己の精神〟を持って『公開処刑』と感じる場においても、敢えて身を晒す気概が必要であり、その気概は武道で追求する心身の強さとなるものです。
 しかし武道と無縁な人には当然、武道精神など必要ありません。
 私の以前のブログで書いた理由は、体育や運動に不条理を感じる武道とは無縁の人達への、体育や運動に取り組む理由にはなりません。
 その点を問われたとして「空手の指導者として武道と無縁な人達への理由など、別に用意する必要はない。」と割り切れることも出来ますが、空手は社会体育であるべきに個人的に思います。
 空手が社会体育としてあるべきにおいては、その武道精神に一般社会における社会通念を包括しなげればならず、武道とは無縁の体育、運動に不条理を感じる人達へも体育、運動を推奨する社会通念としての理由を持たなければならないと思います。

 先日の昇級審査で「自分は間違えるものだと思ってください。」「そして自分も間違えるから、人も間違えるものだと思ってください。」「人は誰でも間違えることを理解し、人の些細な失敗を責め立てるようなことをしない、人を許す気持ちを持ってください。」と受審者の道場生達に話しました。
 空手の昇級審査は規定された項目を間違えないように行わければなりませんが、その項目は多岐にわたり、誰しもが一つ、二つは間違えるものです。
 審査で間違えたことを自覚、反省し、審査後の稽古にその反省を反映させ、その反省をまた「人は誰しもが間違える」といったことから、人への思いやりへと昇華させるのが、空手の審査の意義の一つですが、体育や運動においても似たような〝気持ちの昇華〟は可能だと思います。

 体育や運動が苦手であっても以下のように
 「自分が苦手な長距離走で、長距離走の得意な人を尻目に嫌な気持ちになっても、長距離走が得意な人でも、自分が得意な相撲では嫌な思いをするかもしれない。」
 「人には得意なものがあれば、何かしら苦手なこともあり、そのため誰でも嫌な思いをする。」
 「だから人の苦手のことを無理強いしたり、それを否定したりするようなことは止めよう。」
 といった風に〝気持ちの昇華〟は、社会体育を通して身に付ける社会通念として、記事で書かれている「他者と生きることで生じる『恥ずかしさ』と、どう付き合うか。」
とのことへの、一つの回答にもなり得ると思います。

 自分の嫌な気持ち、ネガティブな気持ちは人へのネガティブな気持ちとなりやすく、今の社会ではインターネットの普及で人へのネガティブな気持ちが充満しています。
 今の社会には個人、個人が自分のネガティブな気持ちをもっとコントロールする必要があると思います。
 体育や運動で自分のからだを通して感じるネガティブな気持ちは、人にただ悪口を言われて感じるネガティブな気持ちと違い、自分のからだを通して自分で感じる分、人の気持ちをより理解し、自分の気持ちをより昇華することのできるものに思います。

 体育や運動での〝からだで感じる気持ちの昇華〟は、記事のタイトルにある「からだを通し世界把握」といったことにも通じるものにも思います。
 新極真会徳島西南支部は社会体育の空手を学ぶ場として、〝からだで感じる気持ち〟への向き合い方を道場生に指導していきたいと思います。

 11.15.2023 記

スポーツ、武道で子ども達の認知能力を高めることのススメ、心が表れる認知能力

 一昨日の日曜日 (11/5) は、香川県丸亀市にて丸亀錬成大会でした。
 私は同日開催の別イベントへの参加のため、丸亀錬成大会には不参加でした。

 大会を主催された新極真会香川中央支部・原内師範、原内道場のスタッフの皆様、道場生が大会に参加させていただきありがとうございました。

 新極真会徳島西南支部からは 9 名が参加。
 アシュウ君が組手で優勝、コウダイ君、ユウジ君が準優勝。

 型でイッシン君が準優勝、リョウマ君が 3 位。

 当日に抽選でチームを決める団体型で、イッシン君、アヤネちゃんが優勝。

 タイシン君が敢闘賞でした。
 勝った人も、負けた人も皆んなよく頑張りました。

 選手の皆んな、保護者の皆様、お疲れ様でした。
 また同行していただいた武田指導員、ありがとうございました。


 私は先に書いたように同日開催の美馬市のうだつアリーナにて開催された、〝あつまれ !! 元気キッズ〟という子育て支援イベントに参加しました。 

 同イベントでは新極真会ブースを設けさせていただき、親子カラテ体験会、少年部稽古見学会、演武、ミット蹴り & 杉板試し割り体験会を行わせていただきました。
 演武では、前回の別イベントでの演武に引き続き、道場生のカイト君が演奏するトランペットの曲に合わせて演武。


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 演武参加の皆んな、よく頑張りました。

 各体験会に参加していただいた来場者の皆さんにも楽しんでいただきましたが、体験会に参加していただいた皆さんありがとうございました。

 また見学会、演武会、体験会に協力してくれた道場生の皆んな、保護者の皆様もありがとうございました。

 そして〝あつまれ !! 元気キッズ〟開催関係者の皆さん、イベントに参加させていただきありがとうございました。

 さて〝あつまれ !! 元気キッズ〟は子育て支援イベントでしたが、ブースの趣旨として子育て支援に沿うように「子どもの認知能力向上」をブースのコンセプトとしました。
 認知能力とは、このブログでもよく書いてきた〝見る力〟〝聞く力〟〝想像する力〟などであり、学習能力の根幹とされるものであり、子どもにとっては非常に重要な能力となります。

 ブースで行った親子カラテ教室では「空手のトレーニングで〝見る力〟〝聞く力〟を鍛えよう。」とうたわさせていただきましたが、〝聞く力〟で突きのフォームとステップを覚えてもらい、〝見る力〟を用いて突きとステップを用いたトレーニングを体験してもらいました。

 稽古見学会、演武では空手の稽古で認知能力を高めている子ども達の姿を来場者の皆さんに見ていただくように、ミット蹴り & 杉板試し割り体験会では親子カラテ教室同様に〝見る力〟〝聞く力〟を用いてミット蹴りで蹴りのフォームを覚えてもらい、覚えた蹴りのフォームで杉板を割ってもらい、参加者に杉板試し割りという成功体験してもらいました。

 子どもの認知能力については最近、スポーツ界でも注目されているようですが、先日以下の記事が徳島新聞に掲載されていました。

 記事に書かれている〝サッカー IQ〟とは認知能力ですが、認知能力は先に書いたように学習能力の根幹であるために、スポーツを通じて認知能力を高めようとすることは非常に良いことだと思います。
 ただ記事をよく読むと記事に書かれてあるチームの試みは、選手達の〝サッカー IQ〟である認知能力を測定し、それによる選手評価が目的の主であるように思われます。
 個人的に記事からは、選手の〝サッカー IQ〟自体を高めようとする意図は薄いようにも思います。

 これも以前からよく書いてあるように、私はサッカーなどのスポーツの精神的本質は〝楽しむこと〟であり、スポーツの精神的本質である〝楽しむこと〟は、空手のなどの武道の精神的本質とは違うものと思っています

 スポーツを楽しむことに認知能力の測定などは、本来、不要であるように思います。
 認知能力の測定などに、まみれないところにスポーツの楽しさはあるよう思いますが、スポーツの精神的本質からスポーツでは認知能力は計るだけで、高めようとする発想が希薄になったりするのかと思ったりもします。

 精神的本質が武道とは違い、認知能力の測定などが本来不要なスポーツですが、スポーツにおいてはスポーツが有する概念を通しては、認知能力を高めることに取り組むべき必要があると思います。
 その概念は武道も有する、共通の概念でもありますが、その概念とは〝アスリート〟という概念です。

 アスリートとは色んな解釈があると思いますが、かいつまんで言えば、私は〝心身を高める人〟であると思います。
 アスリートとは〝身 ( しん )〟である体を高めるだけでなく、〝心 ( しん )〟である「こころ」も高めるものであり、スポーツ、武道で心身をともに高めることによって、アスリートはアスリートとしての心身の豊かさを手にいれるものと思います。

 数値や記録で可視化できる〝身〟を高めることに比べ、〝心〟を高めることは抽象的であり、その具体的な手段はなかなか見えづらいものに思います。
 私はスボーツ、そして武道もそうですが〝心〟を高める具体的な手段の一つとしては、トレーニング、稽古によって〝見る力〟〝聞く力〟〝想像する力〟などの認知能力の向上が適合するように思います。

 先週の昇級審査、受審者の中で審査項目であるサンチン立ちという空手の立ち方を、自分で正確に出来ているかどうかを審査中にしきりと確認している小学生中学年の道場生がいました。
 サンチン立ちは足の指を内側に向けて足を閉めますが、彼はよく稽古で足が開き私に注意されます。

 彼は普段、注意されていることが審査で出来ているかどうかを自分で確認していた訳ですが、普段の私の注意を〝聞き〟覚え、忘れずに出来ているかを自分で〝見て〟確認していました。
 その姿勢は「自分は足が開く癖があり、審査でもその癖が出るかもしれない。」という〝想像する力〟がら働いたものであり、彼の審査での姿勢は「審査に真摯に向き合う」といった心が表れる、認知能力が存分に働いたものだったと思います。

 空手の稽古は、認知能力を高める効果が、非常に高いものと個人的に思います。
 昨今の空手道場は、子ども達、少年部道場生が主体となり、そのため空手道場が子育て支援の一端を担える場になっているように思います。
 子育て支援には色んな形がありますが、子ども達の健全な心身発育を支援することは、子育て支援の重要な役割の一つに思います。

 〝子ども達の健全な心身の発育となる空手指導の具代的な手段は、子ども達の認知能力を高めること〟として、私は子ども達に空手を指導しています。
 道場生の認知能力を高め、また今回のようなイベントに参加して、社会の子育て支援に微力を尽くしたいと思います。

 < お知らせ・道場生向け >
 現在、下記の大会申込書を配布中です。
 参加希望者は、指導員まで申し出てください。
 全四国空手道錬成大会…12/29、愛媛県立武道館、支部内締切 <11/25>
 第 3 回香川県空手道選手権大会…2024/2/12、丸亀市民体育館、支部内締切 <11/29>
11.7.2023 記

大きなスケール感で自分を計ることのススメ 2、時を越えるスケール感

  一昨日の日曜日 (10/29) は昇級審査会及び支部内強化稽古でした。
 先日、私も昇段審査を受審しましたが、18 年ぶりに受けた審査では、とても気持ちが引き締まりました。

 空手の審査は、各項目において手の位置、足の位置などの正しい基準があります。
 受審者は、その基準を理解し、身に付けなければなりません。
 空手の審査は基準どおりに審査項目を行う〝基準に自分を正す〟ことが必要ですが、基準に自分を正すことによって気持ちは引き締まり、その引き締まりが新たな級位、段位での稽古意欲となるものです。

 現代社会では基準が多様化され、様々な個人の基準の許容範囲が広がってきました。
 個人の基準の許容の広がりは LGBT などに代表されるものに思いますが、しかし社会には個人の基準よりも優先すべき、社会的な基準があります。
 それは「人の物を盗むことは許されない」などといった、絶対的な社会の基準です。

 個々の基準は、絶対的な社会基準のうえに許容されるべきだと個人的に思います。
 個々の基準の許容の広がりは〝やさしい社会〟としての社会の進展とされますが、個々の基準は〝社会の絶対的基準に自分を正す姿勢〟を身に付けてこそ、社会的に許容される基準となり得るとも思います。
 自分の社会における絶対的基準を正さずに自分の基準を認めてもらうように主張することなどは、社会を構成する重要項目である〝人への思いやり〟を欠くもので、社会の混乱を招くものだと思います。

 空手の審査における基準は絶対的なものですが、新極真会徳島西南支部の道場生には、空手を通して〝基準に自分を正す〟姿勢を身に付けて欲しいと思います。

 昇級審査を受審した道場生、支部内強化稽古に参加した道場生の皆さん、また付添いの保護者の皆様もお疲れ様でした。
 審査に協力いただいた黒帯の皆さんも、ありがとうございました。

 さて話はうって変わりますが、下の添付動画は先日の居残りスパーリングでの返し技です。


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 また、次の下の添付動画は私が目標とする先人の動画ですが、上の添付動画の返し技が出来た時「先人の添付動画の最後の動きに近いもの」と一瞬、うぬぼれに思いました。


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 私が目標とする先人は、ブログで何度か取り上げてきた、昭和の剣聖と称された「持田盛二」十段範士 (1885-1974) です。
 添付動画の時の年齢が 70 歳であり、80 歳を過ぎても稽古を続け、現役選手を寄せ付けなかったと言われます。
 一瞬「持田範士の動きに近づいたか」と思いましたが、後で動画を見比べてみると持田範士のように足が動いていません。
 「まだまだ」と、思い知らされました。

 持田範士のように、高齢になってもスパーリングをすることが私の目標の一つです。
 先のブログで〝大きなスケール感で自分を計る〟といったことを書きました。
 若い頃は世界大会を目指し、世界の舞台を自分のスケール感としてきた私ですが、選手を引退した今の私にとっての〝大きなスケール感〟とは、昭和の剣聖を基準とするものです。
 若い時は海を越えて、国境を越えてのスケール感でしたが、今は時を越えたスケール感です。

 持田範士は歴史的な偉人であり、畏れ多いスケール感かもしれません。
 しかしスケール感を大きく持つことは謙虚さとなるもので、謙虚に持田範士を動きと自分の動きを見比べることによって自分の未熟さを知り、その未熟さが稽古意欲となっています。
 動画の持田範士は 70 歳、動画の今の私は 51 歳。

 19 年かけて「まだまだ」と思い知らされた、足の動きを身に付けたいと思います。

 < お知らせ >
 次の日曜日 (11/5) に美馬市脇町のうだつアリーナで行われる「あつまれ !! 元気キッズ」というイベントで、新極真会徳島西南支部のブースを設けます。
 ブースでは親子カラテ教室、少年部稽古の見学会、少年部演武、ミット蹴り & 杉板試し割り体験会を行います。

 ご都合よい方は、ぜひご観覧にお越しください。

 また親子カラテ教室、ミット蹴り & 杉板試し割り体験会の定員には、まだ余裕があります。
 親子カラテ教室では、新極真会徳島西南支部の少年部稽古で取り組んでいる〝聞く力〟〝見る力〟などの認知能力を高めるトレーニングを親子で楽しく行える内容となっております。
 このブログをご覧いただいている、お子さんの習い事に空手を検討されている方で、ご都合のよい方はぜひご参加ください。
 また。新極真会徳島西南支部の保護者様の参加も大歓迎です。
 普段見学されている稽古とは、雰囲気の違うカラテ教室となっています。
 興味のある保護者様は、ぜひご参加ください。

 申し込みは、下記添付の美馬市のホームページのからお願い致します。

www.city.mima.lg.jp

 10.31.2023 記