空手のススメ、徳島の田舎道場から

written by 逢坂祐一郎(新極真会 第8回世界大会 2位)

 嫌な思いをしても体育や運動に取り組むことのススメ、自分の嫌な気持ちを人への思いやりへと昇華させる

 一昨日の日曜日 (11/12) は和歌山県大会でした。

 大会を主催された新極真会和歌山支部・黒岡師範、和歌山支部スタッフの皆様、道場生ともども参加させていただきありがとうございました。

 新極真会徳島西南支部からは 10 名が参加。

 型でカイト君が優勝、組手でミツキちゃん、トキ君が優勝、イッサ君が準優勝、ウタ君が 3 位でした。

 入賞できた人も、惜しくもできなかった人も、皆んなよく頑張りました。

 今年の大会も、残すところ 12/29 に行われる四国錬成大会だけになりましたが、参加できる人は次の大会を目指して頑張りましょう !!
 保護者の皆様も、お疲れ様でした。

 さて先日、以下の記事が徳島新聞で掲載されていました。

 記事で取り上げられていた坂本先生の考えが、以前のブログで書いた運動についての私の考えと同じだったので大変興味深く思いました。
 記事の中では「教育である『体育』がスポーツ化する風潮に懸念を示す。」 「『運動=スポーツ』という幻想から解放され、からだの持つ可能性を伝えるのが体育であるべきです。」との坂本先生の考え方が書かれていますが、私も以前のブログで「運動=スポーツ」ではないと書きました。
 また以前のブログで運動のスポーツ化は、運動がスポーツの持つ競争指向に染まることになり、運動の競争化は運動の得意な人、不得意な人を生み出し、運動の不得意な人の運動離れを引き起こす、といったことも書きました。
 坂本先生も似たように「スポーツは競争ありきで、技能の優劣を浮き彫りにする『残酷な』性質を備えている」と、記事の中で述べられています。

 坂本先生は、本来の体育のあるべき視点から〝からだの持つ可能性〟を運動として〝その可能性に優劣はない〟といった考えを示されています。
 私は運動の根底は立ったり、歩いたりする日常生活における運動にあるとし、運動の根底を意識して運動に積極的に取り組むことで人生は良くなるもの、と以前のブログで書きました。

 運動と競争指向のスポーツとは、切り離して考えるべきだと思います。
 しかし運動、特に学校で行われる体育においては、どうしても競争指向のスポーツの影響を受け、苦手意識を持つ人を生み出してしまいます。
 以前のブログで、肥満児だった私は長距離走が苦手で、校内マラソンなどではいつも最下位グルーブ、ほとんどの人たちがゴールをしている中、先にゴールした人たちから「頑張れ !!」などと声援を受けてゴールすることが恥ずかしく、情けなく思い、長距離走が苦手で、嫌いだった、と書きました。

 記事の中で「『跳び箱を飛ばなきゃダメ ?』『なんで踊らなきゃいけないの ?』といった疑問に納得のゆく回答を示すのは存外難しい。」「そして不得手な人が皆の前でやらされる時に感じる『公開処刑』を授業から完全になくすことはできない。」と書かれていますが、記事に書かれている体育の持つ、私が思うに体育の不条理は、自分の経験も相まって痛切に感じます。
 〝疑問に納得のゆく回答を示すのは存外難しい〟とされる不条理を抱えていても、それでも体育、そして運動は学校や社会から失くすべきではありません。
 体育や運動に不条理を感じる人がいても、それを学校や社会から失くしてはならない理由を、スポーツの競争指向から切り離して体育、運動の指導者はもっと示すべきかと思います。

 空手も広義においては運動ですが、空手指導者の私は上記の理由を以前のブログで〝武道精神を身に付けるため〟としました。
 苦手なことに取り組み、克服する精神は〝克己の精神〟であり、それは我々の空手の道場訓にも示されている武道の精神です。

 武道を志すならば、〝克己の精神〟を持って『公開処刑』と感じる場においても、敢えて身を晒す気概が必要であり、その気概は武道で追求する心身の強さとなるものです。
 しかし武道と無縁な人には当然、武道精神など必要ありません。
 私の以前のブログで書いた理由は、体育や運動に不条理を感じる武道とは無縁の人達への、体育や運動に取り組む理由にはなりません。
 その点を問われたとして「空手の指導者として武道と無縁な人達への理由など、別に用意する必要はない。」と割り切れることも出来ますが、空手は社会体育であるべきに個人的に思います。
 空手が社会体育としてあるべきにおいては、その武道精神に一般社会における社会通念を包括しなげればならず、武道とは無縁の体育、運動に不条理を感じる人達へも体育、運動を推奨する社会通念としての理由を持たなければならないと思います。

 先日の昇級審査で「自分は間違えるものだと思ってください。」「そして自分も間違えるから、人も間違えるものだと思ってください。」「人は誰でも間違えることを理解し、人の些細な失敗を責め立てるようなことをしない、人を許す気持ちを持ってください。」と受審者の道場生達に話しました。
 空手の昇級審査は規定された項目を間違えないように行わければなりませんが、その項目は多岐にわたり、誰しもが一つ、二つは間違えるものです。
 審査で間違えたことを自覚、反省し、審査後の稽古にその反省を反映させ、その反省をまた「人は誰しもが間違える」といったことから、人への思いやりへと昇華させるのが、空手の審査の意義の一つですが、体育や運動においても似たような〝気持ちの昇華〟は可能だと思います。

 体育や運動が苦手であっても以下のように
 「自分が苦手な長距離走で、長距離走の得意な人を尻目に嫌な気持ちになっても、長距離走が得意な人でも、自分が得意な相撲では嫌な思いをするかもしれない。」
 「人には得意なものがあれば、何かしら苦手なこともあり、そのため誰でも嫌な思いをする。」
 「だから人の苦手のことを無理強いしたり、それを否定したりするようなことは止めよう。」
 といった風に〝気持ちの昇華〟は、社会体育を通して身に付ける社会通念として、記事で書かれている「他者と生きることで生じる『恥ずかしさ』と、どう付き合うか。」
とのことへの、一つの回答にもなり得ると思います。

 自分の嫌な気持ち、ネガティブな気持ちは人へのネガティブな気持ちとなりやすく、今の社会ではインターネットの普及で人へのネガティブな気持ちが充満しています。
 今の社会には個人、個人が自分のネガティブな気持ちをもっとコントロールする必要があると思います。
 体育や運動で自分のからだを通して感じるネガティブな気持ちは、人にただ悪口を言われて感じるネガティブな気持ちと違い、自分のからだを通して自分で感じる分、人の気持ちをより理解し、自分の気持ちをより昇華することのできるものに思います。

 体育や運動での〝からだで感じる気持ちの昇華〟は、記事のタイトルにある「からだを通し世界把握」といったことにも通じるものにも思います。
 新極真会徳島西南支部は社会体育の空手を学ぶ場として、〝からだで感じる気持ち〟への向き合い方を道場生に指導していきたいと思います。

 11.15.2023 記